見出し画像

「待ち合わせ」(2)

~ デリー ~

*『韮山痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲がっているに相違ない薄気味の悪い奴を時々考えてみると厭な気がした。自分も街角を曲がる奴にならねばならんと思った。』

ぼくは、きっと【 白昼現にあの街角この街角を曲がっているに相違ない薄気味の悪い奴 】であったに違いないと思う。例え、70ドルの価値の無い、このホテルに牽かれて来ようが、タクシーの料金を600ルピー払わされようが。無事こうしてシャワーを浴びている。だから、きっと【 街角を曲がっている奴 】なのだ。
冷たいシャワーではあったが、それでも体には心地よかった。ぼくは、ベッドに座り、財布を探る。別れ際に書いてもらった彼の住所と電話、名前のメモはバックパックに付けられたクレームタグをちぎったものだった。荷物が無事この地に到着したよう、彼も又無事であればいいと願うことしかできない。

その頃、彷徨う旅人、洋平は、ちょうどリクシャと口論をしていた。リクシャに連れて行かれたのはやはり彼の予約を入れたホテルではなく、全く別の場所だった。リクシャが停まると、別の男が彼の横に乗り込んで来た。彼はそれを食い止めようと男を乗せじと抵抗した。男は洋平を殴った。そうして無理に乗り込んできた。彼は慌ててリクシャを降りる。まるで何もわからない異国の細い路地を滅法逃げた。

ぼくは、ベッドに身を横たえる。早く夜が明けるといい。夜が明けて、この部屋の、あのインド人運転手の残していった胡乱なる空気を、その灼熱で消し去ってしまえばいい。この晩に起きた全ての悪しき夢から覚ましてくれるといいと、そう思った。
しかし、これも又夢のようであった。まだ印度に来た実感がわかぬ。果たして、旅をしているのは本当に自分なのか。

16 Mar 2000

小一時間ノ睡眠ヨリ覚ムル。
六時ニ掛カル頃、雨降リ始メル。
慌テ、家ヲ出ル。此、傘ヲ持タヌ所以也。
停留所ニ至ル迄濡レル。
バス到着迄四十分程待ツ。
寒イ。甚ダ遺憾也。風邪ノ為カ、頭痛。
ジイト待ツ。雨ガ静カニ、唯、降ル。

フト、陽水ノ歌ヲ口ズサム。
「行カナクチャ、行カナクチャ・・・デモ傘ガナイ」

此ノ静ケサハ――遠路印度ニ向カウ実感ガ伴ワヌ。

今朝家を出て、空港までの間に書いたメモ。
とにかく、朝を待とう。
朝になれば、この国が、印度の旅が実感を伴ってやがてやってくる。
やがて・・・まどろむ。

ふと、外の話声で目を覚ます。
ホテルの廊下で、低い話し声。
それは、何かを懇願するかのよう、悲哀に満ちた声だった。
ぼくは、時計を見る。
あれから1時間ほどしか過ぎていない。
午前2時を回ったばかりである。

一方、洋平は、バスの下に居て、息を殺していた。
追ってきたリクシャを巻くのに必死で、自分が何処にいるのかも判らない。否、初めリクシャから逃げ降りた場所すらわからないのだ。初めての国の見知らぬ街の小さな路地のバスの下。じっと息を潜め、野犬の鳴き声に身を震わせている。

明日は、6時にこのホテルをチェックアウトして、歩いてアショカヤトリニワースを探してやる。この国のタクシーもリクシャも信用ならぬ。きっと、きっと、歩いて行ってやる。コンノートのはずれとは言え、そう遠くは無いはずだ、四時間も歩けば、きっと目的の場所を探すことだってできるさ。
ぼくらは、一日目、万が一の行き違いを考え、翌日の十時に再び、アショカヤトリニワースのロビーで待ち合わせる約束をしていた。もし、それも叶わぬ時は、彼女の日本の家に電話することで、連絡を取り合う手はずになっていた。
ホテルの外、男が何かを喋りながら歩いてゆく。その声が、シンとしたこの路地の建物にこだまして、よく響いて聞こえる。

三時間あまり、洋平はバスの下、じっとしていた。
バスの下夜を明かすことも考えたという。
洋平は、バスの下から身を覗かせて辺りを窺う。
あのリクシャの姿はなく、洋平はバックパックを背負い歩き始める。
やがて、印度門を臨む、オレンジ色の街灯に煌々と照らし出された歩道に出る。まさか、こんな時間に印度門観光もあるまいに、洋平はそうやって夜のデリー、パックを担ぎ、コンノートプレイスに向け歩いた。そして、約束の場所、その真ん中の公園に至る。ただし約束の時間までにはまだ、七時間以上あった。
辺りは薄く明け始め、洋平はこの場所で野宿をすることに決める。
かくして、はじめての海外に印度を選んだ旅人は、第一日目にして、印度の野宿を体験するにいたるのである。

ぼくはもう、しかし、その頃深い眠りの中にいた。
きっと、【 白昼現にあの街角この街角を曲がっているに相違ない薄気味の悪い奴 】の夢を見ながら。

― 続く ―

この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?気軽にクリエイターを支援できます。

1
音楽と映画とインドな日々

この記事が入っているマガジン

コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。