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全てが逆なのです:悩みがあるうちはまだどん底ではありません (ニンゲンにきいてみた: 音楽プロデューサー 稲葉瀧文さん)

ニンゲンにきいてみた: 音楽プロデューサー 稲葉瀧文さん
「アニマルSDGs x うた」。EMI=Education(教育) x Music(音楽) x Intractive(対話)を提唱する音楽プロデューサーの稲葉瀧文氏。アニマルSDGs編集部では、稲葉氏のブログ「恩学」より、自然のこと、動物との関係のこと、人間だからできること、などをテーマに発信してきます。

「不幸」の逆は「幸福」ではなく「幸不」です。
すなわち幸福が不要だということです。
ですから辛い時ほどあなたは幸福だということです。
その時が成長のチャンスです。心の鍛錬の時期です。

私は子供の頃から苦労しましたが、それが辛いと思わなかったのです。
いつまでも暗い夜が明けないことは絶対無いと信じていたからです。
転校先でいじめられても、友達からの裏切りも、担任教師の意地悪も、笑顔で全部返したのです。

独立して事業が失敗した時にも一人で耐えて冷静に過ごしました。
何故ならどん底に辿り着けば上に上がるしか無いと思ったからです。
悩みがあるうちはまだどん底ではありません。
ほんとうのどん底は頭の中が空っぽの世界なのです。

コップの水の例えもありますように、
もう水がこれしか無いよと否定的に思うのと、
まだ水はこれだけあるよと肯定的に捉えると逆の意識で強くなれます。
空っぽにこだわらなくなるのです。
諦めるはあなた自身で決めるもので他人が決めるものでは無いです。
そうなれば残っている少ない水を希望に変えることも出来るはずです。
たとえば道の野草に水を与える。そこから花が咲き多くの人に安らぎを与える。
水の役割を飲むから注ぐと考えれば「諦める」という言葉は生まれないのです。

あるとき韓国の教会へ多額の寄付を申し出た著名作家がいました。
そうすると牧師さんが一言いいました。
あなたの行為はとても嬉しいのですが、
寄付は多くの人が持ち寄ることで意味があります。
あなたの寄付を受け入れてしまうと
貧しい人たちからの寄付の機会を奪ってしまうのです。
お金を持っている人が募集金額を全部払う行為には意味がありません。
貧しい人が希望を見つける機会を奪ってしまうからです。

普通で考えると1人の人で目標が達成されるなら
ラッキーと思えることが逆だということがわかりますか。
我々人間は損得勘定が先に頭に浮かびます。
時間が短縮できた、目標が達成された、手間暇が省けたなど、効率の部分でしか判断できません。

大型の豪華客船も見えないところで頑張っている部分があります。
それは錨(いかり)です。錨が無ければ船は停泊できないのです。
見える部分はきらびやかですが見えない部分の錨があってこそ停泊時にも快適に過ごせるのです。
見えない部分が見える部分をいつも補助しているのです。

お金に恵まれて派手な生活をしている人は落ち着くところがなくて不幸です。
財産を維持しようとして他人がみんな悪い人に思えてしまうことです。
それだといつまでも安心とやすらぎは得ることが出来ません。
あると思うところには何もなく、無いところにはすべてがあるのです。
見えないところを見る、逆から見る習慣を身につけましょう。

アメリカのミリオネラーの言葉に「Low key」というのがあります。
目立つような派手な暮らしを避けて質素に暮らそうという意味です。
お金のあるなしに関わらずに人間性を大切にして生きていこうという事です。
今の時代は派手さを嫌う風潮が尊ばれるようになってきたという事です。

みんな逆なんです。
仏教のなかには,「托鉢」という行があります。
笠をかぶったお坊さんが手に鉢をもって家々を回りお布施を頂くという行です。
お釈迦さまは托鉢に向かう弟子たちに、こう言ったんです。
「お金持ちの家ではなく貧しい人たちの家を回って托鉢をしてきなさい」

普通、お布施をいただくのですから、お金持ちのところに行くのが常識ですよね?
しかし、お釈迦さまの思いは別のところにありました。
貧しい人がなぜ貧しいのか。
それは、自分のためにしかお金を使わないからであり
その人たちに与える喜びを味わってもらう機会を生みだすのが、托鉢の真の目的だったのです。

絵本作家の「のぶみさん」がこう教えてくれました。
「神社のご神体が鏡なのは、なんでだと思いますか?
鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』ということを教えてくれているのです。
鏡に映すと、右と左が逆になるように。

神社では、お願いをしにくる人の願いが叶うんじゃなくて、神様の願いを聞きにきてくれる人の願いが叶うんです。逆なんです。

神社で売られているお守りもそう。
お守りに守ってもらおうと頼る人が守られるのではなく、このお守りを守ろう・守ろう、大切にしようと思う人が守られる。
逆なんです。

神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、
自分の願いだけを言いに来る人ではなく、
みんなの幸せを願いにくる人だそうです。
だから、のぶみさんは神社ではこう祈っているそう。
「神様のお手伝いができますように。
日本がちょっとでも良くなるように、がんばりますから」

私も昔宮司さんから言われたことがあります。
あなたが人生最後の食事を選ぶとしたら何を食べたいのですか?
おふくろの作ってくれたオムライスやおにぎりを食べたいと答えました。
そう言うと宮司さんは本当に神様に感謝の気持ちがあるのならば、
最後の食事はこれからも生き続ける人達に提供するのが正しいのです。
私は深く反省しました。頂けるからありがたいのではなく、
断ることもありがたいの行為であることを知りました。

今まで学校で教えていただいたことは一方向の教えです。
正義か悪か、高いか低いか、多いか少ないかの教えです。
これが民主主義の基本的な考えで、多数決で決める方式です。
声を上げられない人の意見は完全に無視されてしまうのです。

個人の置かれた環境やその村で正しいという考えは必要なく
日本全体の法律で取り仕切ろうとする考え方です。
都会暮らしの人が山の斜面の危険性や川の蛇行が引き起こす水害を
想像することは不可能に近いのです。

大勢の人が、これが正しいと手を上げている場合は疑ってください。
少人数の人たちが集まりことを起こした場合でも世の中が大きく変わります。
価値観は「逆もまた真なり」
という考えで判断してください。

稲葉瀧文(恩学 2024年6月19日)

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恩学とは
 音楽プロデューサーとして生きてきた中で、常に人の心を見つめながら、感情の発露を気に留めてきました。時代によって移り変わる人としての価値観、その価値観によって変わる感情。自分から作り出す精神的な強さや脆さ、他人から影響を受ける感情の起伏。喜怒哀楽は個人の中にあり、それぞれが喜怒哀楽のガラスの針を持っているのです。些細な事で喜んだり悲しんだりするのは、そのガラスの針が左右に振れるからです。その為に先人達は仏教書や哲学書を読み、切磋琢磨しながら過酷であり又遊楽な人生を過ごしてきたわけです。
 日本人としての心の有り方を調べていく内に「恩」という文字に強く惹かれました。人として「生老病死」の一生です。生まれて、老いて、病気になって、死んでいく中で、他人から受けた思いやり、やさしさ、心づくしが、どれ程勇気付けられた事か、誰でもが経験している事です。
 その受けた「恩」を返さなければなりません。私自身の経験から出た「恩返し」の話や本で読んだ話、人から聞いた話、それらを文字にして書き連ねてみようと思います。徒然なるままに稚拙な文章ではありますが、ご一緒して頂けると嬉しいと思います。
2010年2月14日

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