現在の日本女性の生

原文記事 http://ize.co.kr/articleView.html?no=2017121321487264895

日本には「女子力」という言葉がある。2009年はじめに登場し、日常にもすっかり定着したこの言葉は、「女性が自らの生き方を向上させる力。また、女性が自分の存在を示す力(デジタル大辞泉)」という意味だ。より具体的には、「女性らしい態度や容姿を重んじること、女性特有の感覚と能力を生活や職業において活かすことなど」を指し、ネイルアートなどの美容に気を遣うことや、料理などの生活力と関係して用いられる。

女性だけで集まることを指す「女子会」なる語もある。「女子力」はどうかと思うが、「女子会」程度なら中立の表現ではないかと思うかもしれない。しかし、いかなることにも決められた場所と役割があり、むやみにそこから外れることは失礼なことであると、ありとあらゆる方法で言ってくるような社会において、性別を特定する名の行動様式に意味がないとは言いがたい。

以前行ったことのある居酒屋では、油っぽい肉などのつまみのメニューが青い文字で書かれた「男子用メニュー」と、さっぱりした軽い種類のつまみがピンクの文字で書かれた「女子用メニュー」が出てきた。日本で生活していくことは、毎日、このような女性の立場、区分に出くわし、うんざりしつつ「だからなんだっていうんだ」という視点をいちいち確認することだ。

このような状況とともに注目したいのは、女子の割合が20%にも満たない東京大学(学部)の歪(いびつ)な男女比である。大学側は、女子の学生に不利益になるどころか、積極的に入学を推奨しているにもかかわらず、この問題が解消しない理由は(非常に複雑なものではあるが)一言で言うならば、この大学が提示する進路が、社会において女性に勧められている進路とは一致しないためである。

「女性の浪人生はなぜ珍しいのか」というブログの投稿に対しては、「女性の人生のゴールは結婚なので、学歴は関係ない。東大のかわいくない女性より、高卒でもかわいい子のほうが、いい生活を送れる」とのコメントが寄せられた。一方、日本の多くの女性たちは、結婚して職場を辞め、出産後には、家計を助ける主婦の短時間(パートタイム)労働の世界に組み入れられる。

女性のパートタイム労働者の賃金は、男性正社員の賃金の44.3%の水準で、これを正当化して支えているのは、労働者としてよりも、男性の被扶養配偶者たる妻の資格として社会保障を受けている、日本の福祉制度における女性の立場(地位)である。

つまり、女性をある特定の方向に「(こういうふうに)生きねばならない」とするような構造、固定されたジェンダーロールに依存する方が有利な構造がある。男性扶養者の配偶者資格を得ることが、社会で保護を受けるためには圧倒的に有利であり、このルートの助けにならない選択肢は排除されているが、それが、あたかも女性個々人が自律的に調整したり、コントロールできる問題(つまり「(女子)力」)であるかのようにすり替えられて(化けて)しまったのだ。

では、日本では、これに対する問題意識はないのだろうかというと、当然存在した。20年前、1990年代中ごろ、性の平等に対する国際基準の確立に助けられ、制度的支援と、人々の意識レベルの両側から、日本社会のジェンダー平等を再考するという動きが出てきた。95年の世界女性会議以降、内閣府は「男女共同参画2000年プラン」を定め、教育界では「ジェンダーフリー」という用語も導入し、「男女」という性別の二分法を超えて、多様な性を包括する教育についても議論された。

このような取り組みにより、1999年に制定された「男女共同参画基本法」は、既存の社会制度が、性別による分業とジェンダーロールの構造化によって不平等に維持されてきたと認識し、「特定のライフスタイルではなく、あらゆる個人の生活と多様な選択を尊重する社会システムの構築」を制度的に表現しようとした。しかし、このような試みは、反対派の猛反発を受けることになってしまった。

「ジェンダーフリーは、行き過ぎた性教育となり、セックスを推奨するものだ」「専業主婦を否定することなどは、他人の生活様式への介入だ」「結果の平等の主張は共産主義思想だ」等々、呆れるような批判を垂れ流したのは、産経新聞などの保守論壇だけでなく、韓国では歴史教科書問題でよく知られた、「新しい歴史教科書をつくる会」など右翼団体のネットワークだった。

この組織的な扇動は、インターネット上で若い男性たちを吸収し、彼らはフェミニストを「フェミナチ」などと呼んで攻撃した。これを「世論」と捉えた自民党は、2005年「行き過ぎた性教育とジェンダーフリー教育に対する研究プロジェクトチーム」をつくり、安倍晋三をリーダーとした。はじめは、主張があまりにばかげているため、無視するしかなかった反動派(の論調)だが、自治体から中央に至るまで、明らかな影響を及ぼし、日本のジェンダー平等政策とフェミニストたちの動きを鈍らせた。

フェミニズム政治運動家の船橋邦子は、「ジェンダーの平等政策とバックラッシュの背景」という論文において、彼ら(反動派)の組織的反撃の根底には、「戦争が可能な国」という、家父長制的、国家主義的へと転換をはかる意図があるとしている。

「男女共同参画基本法」が制定された1999年は、「新しい歴史教科書をつくる会」が発足し、この法が成立した第145回国会では「国旗及び国家に関する法律(国旗国歌法)」などの排外主義的な法律も、ともに成立した。
「軍事化を支えるのは、家父長的‘男性らしさ’であり、‘男性らしさ’を支えるのは‘女性らしさ’である」ため、性別分業とジェンダーロールから脱皮し、多様な生き方を可能にする「男女共同参画基本法」と「ジェンダーフリー」は猛攻撃の対象になったのだ。

2001年、「新しい歴史教科書をつくる会」のある会員が、中学の教科書の採択イシューが終わるなり、「歴史はもうメインテーマではない。これからは、夫婦別姓とフェミニズムだ」と言ったというエピソードは、アンチフェミニストが軍事国家化と関連して、ほかのバッシングと交換可能な項目であったと同時に、そのほかのあらゆることと一緒に出てきた事実をよく言い表している。

1990年代から本格化した経済構造の転換において、不確実な世界へと追いやられた「平凡な人」(一般の人)たちの不安が、このような流れの背景に存在すると学者たちは指摘する。これは「日中韓のインターネット世代が憎み合う本当の理由」や、「街頭に出てきたネット右翼」など、日本の右傾化についてほかの文献でも似たような分析がある。しかし、ここでいう「一般の人」は、彼らが自任するような常識的な行為者ではなく、「正常であること」、すなわち必然的に、弱者を嫌悪することと表裏一体であることは明らかである。

この、いわゆる「一般の人(普通の人)」たちが死守しようとしている、「男性は外で働き、女性は家庭を守る」という家庭モデル、「男性は男性らしく、女性は女性らしく」あることを「正常」とするモデルは、彼らを不安へと駆り立ててきた、低成長による経済構造転換と同様に、その根幹から崩壊してしまった。なによりもまず、戦後高度成長と企業の終身雇用制のなかで「一般的」とされた、男性が生計扶養者たる家族モデルが、女性を犠牲にする構造によって成立してきたことを鑑みれば、「一般」という言葉も不自然であり、取り戻すべきものでもないだろう。

「不安」だから「右傾化」した人たちは、構造のスケープゴートではなく、構造の真実を積極的に無視するひとたちと同様だろう。低成長社会を正確に認識するならば、今からでも、固定されたジェンダーロールに依拠した家族モデルを相対化し、女性と男性が職業的に同等な機会を持ち、待遇を受けられるよう、労働、社会保障体制を整えるフェミニズム的対処以外に答えはない。今、日本で必要な「女子力」があるとするなら、その力以外にないだろう。


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