no title

自分の生き方がはっきりとせず、将来どのような職業に就くかもわからない。
67年の映画「卒業」の中で、大学を卒業したばかりのベンジャミンは知り合いの男性に「プラスチック」と囁かれる。プラスチック製品を扱う業界が今の時代きている、というニュアンスで。プチブルジョア的な家庭に生まれ育ち、これからも定められたレーンに沿って歩いていくことに嫌悪感を抱いていたであろうベンジャミンは、その囁きに嫌気が差したように自分の部屋に籠ってしまう。
私は高校生の時このシーンが大好きだった。自分の将来にはっきりとしたビジョンを持たないまま大学を卒業してしまった(優秀な)青年が、周囲の期待や好奇の目から解放され、自由に生きていきたいという秘められた欲望を抱いていることを画面の前の自分だけが知っているという感覚が好きだった。成績は優秀でも、成し遂げたい目標や生きる指針があるわけでもない。ベンジャミンが抱えていた悩みは、私自身の悩みでもあった。人と違うことをやってみたい、だけど何をすればいいのかわからない。大きすぎる目標は行動に移すまでもなく「資金がない、時間がない、どうせできない」という妙に現実的な思いに邪魔され、達成することは愚か、挑戦することもない。
ベンジャミンは架空の青年ではない。ベンジャミンは私のような'想的なのに妙に現実的な人間’の心の中に実在している。
これからの私は4年制の大学を4年かけて卒業し、3年生頃から就活に頭を抱え、4年生で心を壊す、という典型的な中堅大学の大学生を演じるのかもしれない。将来に対する漠然な不安がふと心をよぎる時、偏頭痛持ちでもないのにどうしようもなく頭が痛くなり、耳鳴りがする。夕方の地下鉄にはスマホに齧り付いている人間か、虚な目をしている人間しかいないように感じる。私もああなっていくのだろうか。嫌だと思っていた将来像が、急に現実的なものになる。ベンジャミンは愛するエレーンを連れ去った後、どのように生きていったのだろう。映画のラストシーンで、ベンジャミンとエレーンはバスの中で急に現実的な表情をする。いつだって挑戦の後には現実が飛びついてくる。私は夕方のサラリーマンを馬鹿にしながら生きてきたが、数年後には彼らと同じ地下鉄に乗り、周りを見渡しながら「まあ、こんな生き方もありだよね。みんなそうだもん。」と自分を慰めながら生きているかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?