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阿修羅の偶像(アイドル)第2章第3節

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 保(たもつ)が境内に帰ると、先生は既に戻っていて、鼻歌を歌いながら庭木に鋏を入れている。
「よお」
 先生は保を一瞥すると、手元の木の枝を見て顔をしかめた。
「また、虫がついてやがる。ほんとほっとくとすぐ増えるなあ」
 先生はティッシュを取り出すと、芋虫を摘んでくしゃっと潰し、足元のゴミ袋に捨てた。
「王子様も虫採りか?」
「実はその話なんですが——」
 すると、先生は保の思いつめた顔をしばらくじっと見つめ、言った。
「お前さんが自首しても無駄だよ」
 先生はまたしても保の頭の中を先取りして言う。
「だってお前さんには寺で寝てたっていう完璧なアリバイがあるんだ。その上であんな奇想天外な話、警察が信じると思うか?」
「それは……」
「それに、高坂はまだ死んだわけじゃない。やつの中にいた虫が『外道』に放り込まれたせいで、やつの存在が宙吊りになっているだけだ」
「外道?」
「六道のはざまにある空間のことさ。六道輪廻の理から外れたところにあって、六道を繋ぐ形になっている。普段は時空の裏側に隠れていて見えないが、こないだの庚申の夜に人道と修羅道が繋がった時、その境界線に外道が現れた。それが、」
 先生は本堂の裏の社を指差して、
「あの社の、水天像の置かれた扉の中だ。バルナだけがそこを行き来できる。あいつ自身が人道と修羅道の歩く境界線だからな。そして今から二ヶ月の間に、やつは残り二匹の虫をそこに放り込み、しばらく保管するつもりだ。高坂が人道から消えることが確定するのはその後だ。まあ地獄道堕ちってほどの大物じゃないが、鬼道堕ちは確実だろう。あの虫はそういう生き物だからな。法では裁けない程度の悪事を宿主どもにやらせることで、世の中をじわじわと歪めていく」
「……バルナは……何をしたいんですか?」
 すると先生は苦笑を浮かべ、「少し長くなるぞ」と言った。
「……はい」
 保は静かに、だが力強く頷いた。元よりそのつもりである。
「昔々、あるところに、というやつだな」
 先生は小さく笑うと、話し始めた。

「遥か昔、天衆と龍衆という神々の二大眷属があった。天衆は天空より上界を統べ、龍衆は地水の面の上下を統べる形で、両者は上手く棲み分けていた。ところがある時、天龍の間に戦が起きた。龍衆を統べる勇猛の民たる阿修羅族の王妃を、天衆の帝が見初めて略奪したことがきっかけだ。数多の血が流れた後、戦は天衆の勝利に終わった。阿修羅族の住む世界は新たに『修羅道』として他の五道から切り離され、彼らはそこに封じ込められた。あわせて六道の間の往来が自由だった正法(しょうぼう)の時代が終わり、六道がそれぞれ孤立して存在する像法(ぞうぼう)の時代が始まった。そして阿修羅族以外の龍衆もまた、その大半は全て物言わぬものどもとして畜生道や鬼道に閉じ込められたのだ」
 さっき水戸さんが話していた話だ、と保は思った。昨日バルナが口にしていたこととも通ずる話である。
「だが、天衆への恨みを抱いた阿修羅族を『修羅道』に封じ込めただけでは、また時が来れば復讐の血が流れかねない。そこで天道は一計を案じた。天帝が新たに妃とした阿修羅族の王妃には、既に阿修羅王との間に幼子があった。その子が成人し己の武勇を証明できた時、天帝はその子との一騎打ちに応じるつもりがある、と阿修羅族に通達したのだ。さて、天道はその子の武勇の証しとして、何を求めたと思う?」
「……まさか……」
 保はごくりと唾を飲んで言う。「『虫』ですか?」
「その通りだ。庚申の夜に現れる外道を渡って人道に赴き、人道に猖獗する悪人たちの体から三尸(さんし)虫を引きずり出して天帝に捧げる——これが天道の出した条件だった。この一手は二つの意味で天道にとって都合が良かった。まず第一に、阿修羅族は王子を剛勇の者へと育てることに注力し始め、とりあえず天道への怒りの矛を収めた。そしてもう一つ、阿修羅の王子が最終的に人道を『大掃除』してくれることを見込んで、世の歪みをもたらす三匹の虫を全て人道に押し付けることができた。かくて天道は人道の年にして二千年近く、平和と栄華の時を極めることになったのだ。そしてその際、天道はもう一つの企てを拵えた」
 先生は、ここからが重要とばかりに、ぐっと身を乗り出す。
「正法から像法に移行する直前、天道と人道をつなぐ道が閉ざされる前に、天道は天衆を四人、さらに天龍和平に尽力したことで天道入りを許された龍衆を三人、人道に送り込んだのだ。天龍の寿命は人間の齢にして万年だが、一度人道に落ちればその一生は短くなり、輪廻転生を繰り返すことでその都度前世の記憶は失われていく。だが、その代わり各々が仏法を踏み外さずに生を重ねることができれば、大いなる縁起に導かれ、その志を果たす力が天龍には備わっている。そうすれば然るべき時に然るべき場所に辿り着いて阿修羅の王子を迎え、企てを円滑に進めるお目付役として働くことができる、という運びだ。その七天龍とは、すなわち五部浄(ごぶじょう)、乾闥婆(けんだっぱ)、緊那羅(きんなら)、迦楼羅(かるら)、沙迦羅(さから)、摩睺羅伽(まごらが)、そして——」
「夜叉……」
 保は覚悟を決めたように呟く。そして先生がこっくりと頷いた。
 普通に聞けば鼻で笑うほどの馬鹿げた話ではある。だが、既に保の身に降りかかった摩訶不思議な出来事と繋げて考えれば、全て辻褄が合っているのである。
「そして夜叉は阿修羅と同じ龍衆として、阿修羅の王子たる水天と一体となってこれに仕える天命を担っている。その点お前さんたち龍衆にできることは、われら天衆とは比べ物にならないほど多い」
「でも……俺に何ができるんですか?」
 保は虚ろな目で問いかける。
「俺の手も顔も、ただバルナの意のままに操られるだけですよ」
「大いなる縁起が、」
 と先生が口を開いた。
「最初の企て通りに進むかはまだわからない。お前さんも長い輪廻転生の中で、バルナが人を殺めることに胸を痛めるような人倫を身につけた。それも縁起の一環だ。そしてバルナはまだ若い。既に二千年を生きているとはいえ、人間の歳ならまだ十代半ばの小童だろう。今まで修羅道で大切に育てられ、阿修羅衆の期待に応えることだけを考えてきたバルナが、今回初めて人道に出遊し、何を感じ、どう変わるのか、それも全くわからない。それらも全て、まだ見ぬ縁起の一環だ。そして俺は、」
 先生はそう言った後、さらにもう一度、「少なくとも俺は」と言って、
「バルナが企て通りに動かない方が面白くなる、と思っている。だが、そのためにはぎりぎりまで企て通りに進めなければならないとも考えている。だから今回は、人道に身を置く者としてはけしからん動きに出た。高坂の命をその質草にするために、バルナの動きをあえて傍観したんだ。これは見方によっちゃ殺人幇助罪だろう。だが、もしバルナが天帝と対決する以外の道を選べば、あの小悪党は再び人道に蘇るだろうよ。それが本当によいことなのかはさておくとしてな。まあ、結局全てが企て通りに運び、あの小悪党が鬼道に堕ちるようなことがあれば、上手い理由をつけて俺が警察に出頭するよ。何も知らず巻き添えを食らっただけのお前さんが自首する必要はない。俺が人道の罪を問われるとすればそれもまた、」
 保の目を覗き込んで、言った。
「縁起の一環だ」
「俺は……」
 保は思わず声を震わせる。
「どうすればいいんでしょうか?」
「お前さんはお前さんの思う通りに動けばいいさ。バルナと一体になってしまえば操られるだけ、だとすれば、一体にならないように動けばよい」
 先生はそう言って人差し指を立てると、
「なあに、必ず『隙』は生まれるさ。何しろあの王子様が一度しか生きていない間に、お前さんは何十回と転生を繰り返してきたんだ。小童とは人生経験が違う。言っておくが、お前さんは自分で思っているよりもはるかに今までの生の中で徳を積んできた男だ。あの小悪党が鬼道送りになることに胸を痛めるほどにな」
「あ、お帰り」
 その時、背後から声がした。振り返ると、眼鏡をかけた沙羅が本堂の中から顔を覗かせている。
「バルナは? また一人でほっつき歩いてるの?」
「う……うん」と保は言葉を濁した返事をする。
「しょうがないなあ」
 沙羅は唇を尖らせた。
「あの子、やんちゃだからなあ。誰かとケンカでもしてないといいんだけど」
「そ……そうだな」と、保はまた微妙な顔をする。
「いや、やんちゃなのはいいんだけどさ、エネルギーの使い方を間違えちゃいけないと思うわけよ」
 沙羅は自分の言葉に自分でうんうんと頷くと、
「そうだ。ヤクシャ、ちょっと来てもらえる?」
 そう言って手招きをする。誘われた保が本堂の中に入ると、座り机の上にノートPCが開かれている。
「ここ気持ちいいからさ。仕事場としても使わせてもらってるんだよ」と沙羅。
「仕事場?」
「言ってなかったけ? あたしボカロPなの」
 沙羅はそう言ってノートPCのキーを押し、スクリーンセーバーを解除する。映し出されたホームページには、アニメ絵サムネイルの動画がずらりと並んでいた。
「これが、一昨日の歌」
 沙羅がその中から動画を一つ選んでクリックすると、聞き覚えのあるイントロが流れ始める。
「水天……バルナ?」
 よく見ると、アニメ絵は動画タイトルにある「水天バルナ」の名の通り、水天像を模した三面六臂(さんめんろっぴ)のデザインになっている。やがてボーカロイドの歌に合わせて、画面には歌詞字幕が次々に浮かび上がっていく。
「そう、見ての通りの二次元版バルナだよ。最初はビジュの癖が強すぎるかな、と思ったけど、思ったより再生数稼げてビックリしたよ。雰囲気作りが上手くいったのかな。あと、楽曲にはそれなりに自信あるんで」
 沙羅は少し得意げにそう言い放った。確かにあの曲は素人が作ったとは思えない出来栄えの楽曲であったし、沙羅のホームページには本堂や社、仏像などの画像が散りばめられ、和風の趣が上手く醸し出されている。
「まあ、ボカロPはあくまで実験的なものだけどね。あたしの夢はただ一つ、」
 沙羅は口元を小さく緩めると、
「本物のバルナを、六道一のトップアイドルに育てあげること。前も話したけど、天龍八部衆はみな音楽の名手で、その中でも阿修羅は伝説の楽器、阿修羅琴(あしゅらきん)を『触れもせず』に弾きこなすロックスターのはずなんだ。阿修羅は戦いの神と言われているけど、本当は音楽の神に決まってる。ちなみにヤクシャ、楽器は何か弾ける?」
「いや、全然」
「じゃあ」
 沙羅は傍に立てかけてあった白い弦楽器を保に差し出して言った。
「この阿修羅琴でギターの練習をしてみてよ」
「え?」
「どの文献を読んでも八部衆はみんな楽器が弾けるのに、夜叉だけが何も弾けないんだよね。二千年も人道を生きてきたというのにまだ弾けないなら、それは怠慢です」
 沙羅はニコリともせずにそう言い放った。
「は、はい……」
 保は思わず身を小さくした。今までなら沙羅の妄言としか思えないような言いがかりだが、先生の話を聞いた後では、己の前世の不明を恥じる気持ちが保の中に芽生え始めてしまっている。それに、沙羅の振る舞いには人に有無を言わせないような不思議な圧の強さがあった。
「簡単なリフでいいから、二ヶ月間で弾けるようになること。それで、次の庚申の夜に披露してよ」
 そう言って沙羅は、とりあえず簡単なコードを二つ保に教えると、おもむろにヘッドホンをつけてノートPCに向かい、ああでもない、こうでもないと独りごちながら編曲作業を再開する。そして保はその横で、期せずしてギターの反復練習に勤しむことになった。
 しかし——
 と、保は沙羅の背中を見ながら思う。彼女は自分のようにバルナに散々振り回されて奇妙な体験をしているわけでもないのに、何故ここまでバルナが本物の神様であることを素直に信じられるのだろう。そもそも彼女は今までどんな人生を歩んできて、何故今ここにいるのか。そう考えていくと、沙羅もまたバルナに負けず劣らず不可思議な存在のように思えてくる。そういえば彼女も自分たちと同じ、何か天龍の転生体なのだろうか……
「よし、とりあえずこれでいいかな」
 やがて沙羅はそう呟き、大きく腕を伸ばすとヘッドホンを外した。そして振り返って保の奏でるリフにしばらく耳を傾けて、言った。
「ふむふむ。だいぶそれらしくなってきてるな。よしよし、その調子で二ヶ月間精進したまえ。ヤクシャが簡単なリズムギターだけでも弾けるようになれば、みんなで何か演奏できるからね。もちろん、バルナのリードボーカルで」
「バルナのボーカル?」
 それは保にはにわかに信じがたい絵面であった。何しろ歌舞音曲は女子のやるものと断じてはばからず、今日だってShangri=laのライブ映像がよほど気に入らなかったのか、中座して店を飛び出したようなやつだ。
「バルナはまだ子供なんだよ」
 だが、沙羅は確信に満ちた眼差しを保に向ける。
「だから、自分のことをまだよくわかっていないの。でも、必ず自分が音楽神であることに気づいてくれると思う。だから、バルナがそれに気づいてくれるような曲を準備すること、それがあたしの使命なんだ」
 沙羅はそう言って再びヘッドホンをつけ、真剣な顔で作業を再開する。沙羅の思い込みの強さには呆れるばかりだが、保は彼女の話を聞いて、少し考えが変わった部分もあった。さっき先生も言っていたが、確かにバルナはまだ若く、興味関心が変わる可能性は十二分に残っているのだ。もしバルナが音楽に目覚めでもすれば、天帝との決闘を思いとどまることにもつながるのではないだろうか——
「……沙羅」
 保は、そう言って沙羅に歩み寄る。それに気づいた沙羅がヘッドホンを外すと、保は決意に満ちた声で言った。
「俺も協力したい」

「精が出ることだな」
 夕方近くになり、保が境内を掃除していると、参道の方から声がした。バルナが憮然とした顔でこちらに向かって歩いてくる。この様子では、今日の「虫採り」は期待外れに終わったようだ。
「バルナさ」
 保は早速切り出した。
「ちょっと本堂の方に来てくれないか?」
「ほう、手合わせか?」と、バルナの目に生気が戻る。
「いや、見せたいものがあって」
「……別に構わんが……」
 バルナはまた気乗りのしない顔に戻って小さく首肯した。保は箒を置き、本堂に向かって歩き始めた。
「あれ?」
 保が振り向くと、バルナは立ち止まって弥勒像をしげしげと見つめている。
「バルナ?」
「あ、ああ」
 保が声をかけると、バルナは我に返って足早にこちらへと歩みを進め、
「似ている」
 とつぶやいた。
「あの弥勒像、あの水戸玲耶とかいう女に似ている」
 バルナは苛立たしげに首を捻ると、
「実にふざけた話だ」
 そう言って、足早に本堂に駆け上がる。そして、
「何だお前か」
 沙羅の姿を見つけると、バルナはうんざりした顔になった。
「そんな汚い虫でも見つけたような顔しないでよ」
 沙羅は小さく口を尖らせる。するとバルナはじろりと保を睨んで、
「こいつは今朝からしつこいんだ。ヤクシャ、お前もグルになったのか? 体術の話かと思えば、また歌舞音曲の話か?」
「そうだ」と保は力強く言った。
「沙羅と二人でバルナが好きそうな曲を選んだんだ。聴いてくれないか?」
「勝手にしろ」
 バルナはふてくされた顔で床にゴロンと横になる。
「じゃあ、行くぞ」
 保が動画の再生ボタンを押すと、ギターの低音がぎゅいんと唸り、やがて軽快な鍵盤の音が流れ始めた。

いつだって未完成 上手に変われない 
ドウシヨウモデキナイコト 弄んでいた

吐き出したため息が スラーを描いてく 
ルーティンな不協和音 今 奏で出せ

間違えたって問題ない 
もう 嵐のようにぶつけたい
導いて アゲイン、アゲイン、アゲイン

ギラリ ギラリ 影を引き裂け 狂おしく照らせ Let’s Play The Music!
光 メロディー 暴れ騒げば バカげた魔法さ Let’s Play The Music!
No Nameなミュージック! 
きみとぼくと愛をつくる

 保がこの曲をバルナに聞かせようと主張した理由は、つい先ほどから保自身が生まれて初めて楽器をいじり始めた、ということも大きい。
 実際、沙羅に教わった簡単な二つのリフを練習しているだけで、だんだんそれっぽいオケになっていく感覚は新鮮なものがあった。自分の奏でている音が、少しずつ着実に「題名のない音楽」になっていく喜びがバルナに届けば、と思ったのである。
 だが、バルナは大の字になって天井を見つめたまま動かない。

輪になって踊ってる 熱っぼい手のひら 
終わりなきフェルマータ 虚しいだけ

どうやってココから 新しくなるだろ 
どうやってココロが キレイになるだろ

BPM 自由自在 もう 小節数は関係ない 
教えろ アゲイン、アゲイン、アゲイン

ギラリ ギラリ 影を引き裂け 狂おしく照らせ Let’s Play The Music!
光 メロディー 暴れ騒げば バカげた魔法さ Let’s Play The Music!
No Nameなミュージック! 
きみとぼくと愛をつなぐ

堂島孝平『PLAY THE MUSIC-題名のない音楽-』

 曲が間奏に入った。沙羅の曲は全てボーカルもオケもほぼ電子音で作られているが、ギターだけは沙羅の奏でる生音が乗せられているのが特徴だ。そしてこの曲では沙羅はとりわけ軽やかなギタープレーを見せているように保は感じた。それが、保がこの曲を選んだもう一つの理由だ。
 だが、バルナはやはり動かない。

Let’s Play The Music! 
No Nameなミュージック! 
Let’s Play The Music!

 曲が終わった。バルナはしばらく微動だにせず沈黙していたが、やがてむくりと上体を起こして一言、
「耳の奥で灰になる」
 と呟いた。
「修羅道ではいつもそうだ。何を食っても喉で灰になる。どんなに美しいものを見ても目の奥で雲散霧消する。あの戦の後、天衆が我々を罰するために我々の世界をそういう風に拵えたからだ。人道は違うと聞いた。バルナは人道の食い物を本当に食らうことはできない。だが、食らうふりをすることで、食い物の味を深く味わうことはできた。ヤクシャの体術を食らえば痛みを一瞬だけ味わうことはできた。でも、音曲は修羅道にいる時とあまり変わらん。歌も音色も全て耳の奥で灰になる。バルナを模したつもりであろうその絵も、見ているそばから目の中で消えていくんだ。灰にならなかったのは、その『阿修羅琴』とやらの音色と、」
 バルナは、そこで一瞬忌々しげな表情になって、
「あの踊り子どもの……歌と舞だけだ。あれはあやつらが己の身体を用いて存分に歌い踊ったからだ。そして音色は、沙羅、お前が実際に奏でたからだ」
 沙羅は真剣な表情でバルナの言葉に耳を傾けている。するとバルナが、「いいか」と沙羅を指差して、
「このバルナに何か音曲を聴いてもらいたいのであれば、己の声で歌い、己の手で楽器を奏でろ」
「うん、そうするつもりだよ」
 沙羅は真摯な面差しでうなづく。
「いつかみんなに生演奏してもらうつもりで曲を作ってる。叔父さんとファルークさんとナラキンさん、みんな楽器弾けるし……ヤクシャだって練習し始めたんだよ。それで、」
 沙羅はバルナをまっすぐに見つめると、
「バルナに、歌ってもらうの」
「カカッ」
 バルナは嘲りの声を漏らした。
「まだわからんのか? 物事には分際というものがある。歌舞音曲は女子の仕事だ。人道だって昔はそうだったはずだぞ。さっきの歌にしても、『ぼく』というのは男言葉だろう。頭がおかしいとしか言いようがない」
「おかしくなんかないよ」
 沙羅は射るような目でバルナを見つめる。
「男の歌手だって、男言葉を歌う女の歌手だって、人道にはいっぱいいるんだよ」
「やはり末法の世だな」
 バルナは呆れた顔でかぶりを振った。
「そこは修羅道の方がよほどわきまえている。たとえばあの女どもの舞いは実に勇壮だった。だが、修羅道ではあれは女のやることではない。女の舞はもっとたおやかで優美なもの。そして我ら修羅道の男にとっては、鬨の声こそが歌、剣技と体術こそが舞いなのだ」
「でもバルナはまだ子供じゃない? 叔父さんが言ってたよ。天龍は、」
 沙羅の視線がバルナに噛み付く。
「大人になって初めて、自分の性別を選ぶんだ、って」
 それを聞いて、保は耳を疑った。人間にとっては、にわかに信じられないような話である。
「今のバルナはまだ、女になる道を選ぶこともできるんでしょ?」
 バルナは少しバツの悪い顔になって、沙羅の食い入るような目をしばらく睨み返していた。が、やがてカカッと笑い、
「並の天龍ならばそのような選択肢もあろう。だが、バルナは阿修羅族の王子、水天だ。バルナにとって、男でなくなることは、」
 バルナはすっくと立ち上がると、
「阿修羅でなくなることを意味するのだ」
 そう言い捨て、本堂を出ていく。
 保は呆然とバルナの背中を見送るばかりだ。取り付く島もないとはこのことだろう。隣では沙羅ががっくりと肩を落とし、しゃがみこんでいる。今回は自分が推した曲がバルナに却下されたということもあり、保はひどく責任を感じてしまうところがあった。
「あ……ごめんな……あの曲、気に入ってもらえなかったみたいで……ただ、あいつの言うことも一理あるっていうか……」
 保は要領を得ぬまま、沙羅に投げかけるべき言葉を探し続ける。
「要は、やっぱり音楽は生じゃないと、ってことだよな……そうだ。今度はとりあえずみんなで生演奏した曲を、バルナに聞いてもらうってのがいいんじゃないかな? 歌はとりあえず沙羅が歌って——」
「あたしは二度と人前で歌わないって決めたのっ!」
 沙羅の鋭い叫びが本堂に響き渡った。
「え?」
 普段は感情の起伏を露わにしない沙羅が突然激昂したので、保は驚くばかりだ。すると沙羅はすぐに「ごめん」と頭を下げて、
「でも、あたしが歌うことはないよ。だってあたしは、」
 沙羅はすっくと立ち上がると、
「バルナに歌ってもらうために、曲を書いてるんだもの」
 そう言い放って、本堂を出て行ってしまった。


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