見出し画像

03. 幸運?

父の死後、心の乱れがおさまらずに心療内科に通うことを考えていた頃、思いがけず新しい命を授かった。戸惑ったけれど、日に日に育つ生命を消す選択肢は浮かばなかったし、それは「予期せぬ幸運」にも思えた。父にもう縛られなくていい、これは人生の転機なのかもしれない、と淡い期待を抱いた。

息子は早産となったが、保育器に入ったのは初日だけ。発育状況が驚くほどしっかりしている、と医師に太鼓判を押された。とはいえ未熟児の息子は、授乳も哺乳瓶で少量ずつ。ミルクを飲んでいる最中に呼吸が止まることがあり、飲み終わると毎度吐き戻し、すぐ空腹になって泣く…。切迫性早産の原因は科学的には分からないそうで、看護士さん達は明るく「早くママに会いたかったのよ」と肯定してくれたが、私は答えを探し求め、その後1年くらいは、胸のつかえが消えなかった。

私の不安をよそに、息子は順調に育った。なかなか眠らない子で、毎日20時間は縦抱き抱っこ。横たわっていても常時暴れていた。0歳のうちに入園が決まり、私は職場復帰を果たした。だが、パワフルな息子に振り回され、ほとんど体力は回復していなかった。復帰前に家事分担を夫に相談したけれど、即座に拒否された。そして更に「第1子の0歳を預ける」のは、輪をかけて大変なことだった。

私は昼間は仕事、夜は洗濯・炊事・翌日の登園と離乳食の準備。しかも息子は初年、平均で1日おきに小児科に通い、風邪薬を飲み続けた。発熱による遅刻早退は1年出勤日数のおよそ3分の2。40度近い熱があっても、安静に寝ていたことは1回くらいだった、というくらい、万年元気。免疫が落ちていた私自身も隔週で息子の風邪をもらい、2ヶ月毎に高熱で寝込んだ。疲労から仕事ではミスも連発して、周りに迷惑をかける罪悪感は日ごとに増していった。

ずり這いやつかまり立ちで息子の行動範囲が広がると、3秒目を離せば何かが起きた。小さな怪我や頭部殴打はしょっちゅうで、救急病院には半年に1度はお世話になった。命の危険を感じる行動も多く、起きてから寝るまで目が離せなかった。食べることにも興味がないから、大人も食べる時間がない。毎日騒々しい夜、疲れでぐったりと眠りに落ちても、息子は入眠も遅いし夜中の授乳も頻繁だった。

夫は「家事はしない、育児はする」と言い放ったが、できるのはオムツ替えとミルク作りとだっこくらい。園の持ち物をまとめるわけでもなく、息子の冬服と夏服の区別もつかない。息子を喜ばせることが好きな反面、細かなことの注意がうるさい。私が高熱で寝込んでいようが構わず、元気な息子と私を残してツーリングや農業ボランティアに毎週出かけて行った。

神経が張りつめ、イライラが募りだした。夫婦とも疲れているせいか、日常会話もなかった。毎晩夫が缶ビールを開ける音が耳につく、子守りと称して乳児に動画を見せ続ける…。でも、私は生来、怒りを表に出すことが苦手だった。頭の裏側でだけ、夫に怒鳴りつける声が鳴り響いていた。

ある夜とうとう、夫に向かって話す声に怒気が混じり、大声になって爆発した。私が怒鳴るのは人生で2度目だった。1度目は、父親に向かってだ。2度目なんてないと思っていた…。自分でビックリして、熱いみそ汁をひっくり返してしまったほどだ。でも止まらなくて、続く言葉も怒鳴り声だった。夫も怒っていたが、その日からやっと皿洗いをするようになってくれた。2年目には小児科にも連れて行ってくれるようになった。

だが、私の体力不足と疲労はそのまま続き、復帰2年目の冬に仕事で大きなミスをした。モラハラ上司からの叱責も拘束もきつくなった。息子は離乳して夜泣きもほとんどしなくなったのに、私はまだ眠れなかった。横になっても眠りに落ちにくく、やっと眠れたと思っても1時間ほどで目覚める、上司に叱責される夢を見る…これを一晩に何度も繰り返した。眠りたくて仕方ないのに、眠れない日々が半年以上続いた。

息子は大人の言葉をだいたい理解するようになっていたが、危険な行動・好ましくない行動は一向にやまない。保育園に「行きたくない」と毎日泣き喚くようになったのもこの頃。園では「お母さんの叱り方が甘い」と暗に言われ、公共の場では見知らぬ人から冷たい言葉や視線を投げられる。私が息子を叱る言葉はどんどんきつく、意地悪になっていった。何度自己嫌悪しても、怒鳴る自分が止められない、手を挙げてしまう…いや、もっと酷いことをしてしまうかもしれない。自分を責める涙を流しながら、相談できる人を探し始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?