見出し画像

してんかんてんのてんかん

私が見たかったのはことばだった

心身を休めるために久しぶりに出かけた美術展。傘をさすことを躊躇う街のなかで私こそが異邦人のような感覚に陥る。そんな大都会のなかを走る小さなコミュニティバスは、靴音をすり抜ける野生のネズミみたいで、どう見ても非効率なルートを走って小さな美術館の前に停まる。
或る方に絵本をプレゼントしてから興味を持つようになる、ことばにすると滑稽で、相手を実験台にしたみたいで嫌だけれど、至極定性的で曖昧な嗅覚のようなものははたらく方で、とても素敵な絵本に出会えた、と独りよがりに満足をした。
展示を見始めて、私が見たいものと少し違うと感じた。絵本作家さんなので原画がたくさん飾られているのだけれど、私はそれほどまでに絵には興味がなくて、どうしてそんなにシニカルなストーリーが思いつくのだろう、ということや、そのなかにある詩的で本質をつくようなものはどんなバックボーンがあったのだろうか、ということに興味があったのだけれど、絵には一対となるはずのことばはほとんど書かれてはいなかった。
見ると観るが異なるように、観点はそれぞれ。だから企画された方々とは違う、ということなのだろうなと自分を無理矢理納得をさせた。けれど、その方の絵本はずっと同じ方が訳をされておられるし、本編と同じくらいの容量で訳者さんのあとがきが書かれているから、出版社の方もまた作者のことばの不思議な魅力を取り上げたいのではないだろうか、と素人考えで推測していた、のだけれど。

展示に囲まれたソファに座って著作を自由に読むことができるようにしていたのはとても素晴らしかった。読みながら周りを見回してみると、展示や絵本を頬や肩を寄せるように見合って小さなこえで感想を言い合う人たちがたくさんいて、そういう光景もまた素晴らしいなあと思った。
女性が熱心に見ているなかで、少し離れたところから興味なさげに足首を回しながら見ているふりでもしているみたいについてゆくパートナーの男性を見て、知らなくても興味がなくても、どんなところに興味が持てそうかな、相手はどこにそんなに興味を持ったのかなあと思いながら眺めてみるだけで、どんなに小さくとも必ず発見はあるはずだよ、と心のなかで思った。

見ているふりをしているうちは何も見つけられないものさ
と作者が言っているような気がしたから余計に。

たんなるにっき(その119)

よろしければサポートをお願いします。自費出版(紙の本)の費用に充てたいと思います