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感受性につけるフィルタは使い捨てです

いつもより感じやすい日だった

会議前の資料確認で急遽打ち合わせ
怒られたりしたわけではない
他愛もないアイスブレイク
聞いて、話してを繰り返しながら
胸のあたりから巻いた渦巻きが
拡がる感覚をおぼえた
悲しいでもなく、嬉しいでもなく
ただ、ただ感じるというだけ
いや、名前をつけていないだけだろうな

人よりも感受性は強い
だからこそ、日頃は制御して感じすぎない
ようにしている
それは寒い日に1枚羽織ることや
感染予防でマスクをするのと同じくらい
自然にフィルタを挟み込む
そうしないと自分に関係のないことまで
いちいち響いてしまう

そうしているうちにそれが本当の私に
なってしまってくれたなら良いのに
一向にフィルタはかりそめで、使い捨て
何年となく生きているのにずっと
生きることに慣れない、生きづらい

こうやって言うとまた『HSPは』と
揶揄されるのだろうけれども
定義やなまえができる前からずっと
違和感のなかにいるのだから仕方ない

見える色や風景や感覚は誰と誰が同じで
私とは違うのかどうかはわからない
測りようもないし、その気も起きない

私にとって当たり前に見えることばが
特異で面白いと言って頂けることもあるけれど
それはまるでピンともこない

けれど、なんて美しい感性なのだろうと
感嘆することもあるし
私には到底浮かばない発想や感覚に触れると
うらやましいというより、うれしくって
仕方ない

人からは私のほんとうの部分が見えない
そういうのを見せないように隠してそう
と言われるけれど
多くの方はそうしてるのじゃないのかしら、と思う
私は人が怖いと思っているから
そんなに簡単にこころなんて開けない
開かない、じゃなくて、開かない
それに今みなさんに見えている私は
ほんとうではなくても、嘘の私ではない

感受性にフィルタをかけているように
社会的存在として理性やTPOがフィルタに
なれば違ってみえるのは当然のこと
お母さんの電話口と同じよね

だいぶだいぶ脱線したけれど
今日感じすぎてしまったのは何だったろう
とずっと考えていた

思いつくのは
ひとのなかにいて感じる孤独感
あたたかく接してもらえるなかで
私だけが感じる違和感には、ある種の孤独がある

そして、ひとの優しさや笑い声
気にかけてもらえた嬉しさもあった

そうやって私は私を演じながら
それでも生きる、と決めて
こうして生きてる、と伝えたいなあ
と思いつつも伝えられない寂しさもあったかな

今日は感じすぎてしまったみたいだよ

たんなるにっき(その102)

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