大阪府立高校の定員割れ と 廃校 と 陰謀論(笑)
大阪府では、定員割れが生じ、それが原因で廃校をする府立高校がある。
1.問題意識
私が着目したのは「定員割れ」の数字のカラクリだ。
母数である募集人数が少なければ、定員割れになるどころか、定員超過になる。
定員割れを起こしている高校の募集人員が、何故、「160人」で固定しているのか。「100人」にすれば定員割れにならない。
定員割れで廃校(統合・再編整備)になる高校に赤線を引いた(上の画像)。
ネットでザッと(不十分ですが)見渡したところ、募集人員が160人であることの合理性について言及した文書は見受けられない。
「大阪府立高等学校・大阪市立高等学校再編整備計画(2019(平成31)年度から2023年度)」(令和3年(2021年)1月18日改訂)という公文書がある。
この文書の15ページに「学校規模について、基本的な募集学級数である 6 から 8 学級の中間値である 7 学級を適用し」と書かれてある。
学校規模の数値は、国が示したのではなく、大阪府が自主的に定めているようである。
1学年当たり6から8学級が基本的な現状の学級数ではあるのだろうけれども、何故、その学級数を望ましい数値として、将来の制度設計に適用するのだろうか。
このような問題意識の下で、これを所管する大阪府 教育庁 教育振興室 高校再編整備課 新高校第一グループに、2022年11月9日に、(詳細は自分で読んで勉強するので)根拠となる文書の在処について、電話で聞いてみた。
電話での回答の概要は次のとおりであった。
公立高等学校の適正配置及び教職員定数の標準等に関する法律 | e-Gov法令検索
(参考)答申の12ページ
https://www.pref.osaka.lg.jp/kyoikusomu/gakkyoshin/toushin20-7.html
2.40人学級について
法第1条には、40人学級であることについて、目的が記されている。
教育水準の維持向上を目的として40人学級を定めたのである。
ゆえに、更に一層教育水準が向上する施策があるのであれば、40人学級にこだわる必要はないということだ。
生徒の立場からみた場合、生徒の人数が少ない方が、生徒1人当たりの各種教育資源の割り当て量が多くなる、また、生徒会役員になれる可能性が高くなるなど、生徒の学習環境が向上する側面がある。
40人学級や、1学年4学級以上、という数値自体は、絶対に正しいというものではない。
「定員」とは、都合の良い結論に導くために創作された数値だ。
大阪府教育委員会は、「定員割れ」というもっともらしい物語を創作し、それが問題であるかのように振る舞い、廃校を進めている。
しかし、「規模が小さい」というスケールメリットを活かす方策を講じることもありえる。
廃校にしなくても、生徒の定員を少なくし、必要に応じて教育資源を適宜再配置すれば良いだけの話である。
3.陰謀論(笑)
廃校に反対するかのようなハナシを書いてきたが、私の論旨はここで反転する(笑)。
たぶん、オモテには出せない事情があるのかもしれないが、私にはわからない。そこで陰謀論が登場する(笑)。
陰謀論その1:公教育を後退させ、私学を維持・拡大させる意図があるのかもしれない。これは民主主義教育の危機だ。
私学は、私的理由により開校した。
ゆえに、そこでは、必ずしも、民主主義的な学校運営が成り立っている、とは言えない(推測)。
この実態については、不明である。
ただし、「じゃあ、公立高校は、民主主義的に運営されているのか?」という問が発せられ、次の陰謀論に続く。
陰謀論その2:学校規模が小さいと、特定の政治勢力に乗っ取られるリスクがある。
例えば、「部活動はラグビーを優先する!」という学校運営になってしまうかもしれない。そのような状況は、私・東大阪市民としては、避けたい。
学校規模が小さい場合、その学校の特色を出し易くなる。
ただし、「特色がある」のと「偏っている」のは紙一重だ。いや、同一かもしれない(笑)。
公教育においては、これはリスクであると考えることができる。
学校規模が小さい場合、どのように偏っていくのかという、実証の実験台になっている高等学校が東大阪市にある。
定員割れをしている東大阪市立日新高校(普通科は1学年で4学級、英語科は1学級、商業科は1学級)では、ラグビー部だけを優遇する不平等な教育を行っている。
東大阪市議会文教委員会で、教育委員会高等学校課の担当者が
「日新高校のラグビー部は、ラグビーの聖地花園を目指しています」
という趣旨の答弁をしたことがあった。
教育委員会が目標設定をするのは変だな、と思って、問い合わせたところ、この目標は、ラグビー部の生徒が設定した、との回答であった。
公立高校で、しかも在学生が少ないにも関わらず、そこのラグビー部は、聖地花園を目指す、という目標を設定したのだ。
しかも、それは教育委員会の担当者にまで届いている。
果たして、この目標は現実的なのか。生徒は、本当に民主的に目標を設定したのだろうか。
学校規模が小さい場合、一部の者が大きな声を出すと、それに引っ張られて、「花園を目指すラグビーの強豪校」に仕立て上げられてしまうリスクがある。
全ての府立高校を確実に安定的に運用したい、というのが府教委の立場なのかもしれない。それはそれで、一定のリスクを排除するということであり、説得力も一定程度ある。
次のリンク先は、入学志願者数の増加を目的とするオープンスクールに、生徒が主催者の立場で参加した、という記事である。
土曜日に、公立高校の在校生が、見学に来た中学生を相手に、高校の広報をしている。このような学校行事は、在校生に対する教育ではない。
参加した生徒全員が自由意志による自主的参加であるとは思えない(私個人の感想)。学校規模が小さい場合、同調圧力が増し、断りにくい雰囲気になるのではないだろうか。
私学であれば学校としての具体的な目標・特色がありうるかもしれない。
しかし、公教育においては、具体的な目標(例えば、ラグビーに強い学校)は不要であり、在学している生徒に最適化した教育を施すべきだ。つまり、公立学校では、特色は不要だ、というのが私の考えだ。その替わり、人類にとって普遍的な真理を教授するようにすべきだ。
廃校のあり方は、大人のリクツで決定されているようだ。
教育効果という論点があっても良いのではないだろうか。
以上