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読書感想文:『人びとのなかの冷戦世界ー想像が現実となるとき』ー「災害ユートピア」の後始末譚、あるいは、なぜ我々は原発事故のあとに「風評」という社会的装置を必要とするのか?

 益田肇『人びとのなかの冷戦世界ー虚構が現実となるとき』(岩波書店、2021年) は、今年の大佛次郎論壇賞、毎日出版文化賞のダブル受賞作となる。

 1950年の朝鮮戦争期のアメリカ、日本、中国を中心とした世界的な社会変化を、冷戦世界観がどのように凝固していくかという観点から読み解いた内容になる。

 毎日新聞の書評で、日本近代史を専門とする加藤陽子さんの書評

その本を読む前と後で、目の前の風景が違って見える本に何冊出会えるかで人生は変わってくる。今回取り上げる本は私にとってまさにそのような一冊だった。

 とまで評されている。学問的な意味のでの評価は私にはできないが、本書で提起されている問題把握のしかたは、読んでみると確かにそうだ、なぜ今まで気付かなかったのだろうと思えるようなものだ。

 第二次世界大戦の参戦国は、戦後、「人びとの社会戦争」と呼ばれる社会の分断——戦争中の非日常的な開放的な空気がもたらした既存秩序への変化を求める動きとそれに対する反発がもたらした社会的軋轢——が発生した。そこに対外的な脅威と、戦争のために払った犠牲が報われない不遇感があいまって、その軋轢を収めるための社会的装置として「冷戦」が想像上の現実として機能した、という様子が、日本、アメリカ、中国を中心として、資料を用いながら詳述されている。

 私にとって本書が新鮮であったのは、戦争という巨大な出来事が「その後」の社会にどのような影響を与えたのか、冷戦という観点から読み解いてある点だ。
 災害や戦争に至るまでの道筋とその渦中の様子については関心が集まるが、「その後」についてはあまり関心が払われない。私自身が原発事故後の「その後」にかかわり続けていて実感するのは、災害や巨大事故、事件といった社会に大きな影響を与える出来事が起きた後は、「その後」の社会に起きる変化や出来事のほうが遙かに複雑であるし、また、後世に大きな影響を与えるものであるということだ。であるのに、不可解なほどに、出来事そのものに比べて、関心は払われない。

 チェルノブイリ事故にせよ、広島・長崎の原爆投下にせよ、その出来事に至るまで、あるいは、その出来事がもたらした短い期間における破滅的な被害について興味を持った人は少なからずいるだろうが、その後について、ごく短い期間のストーリーか、いくつかのエピソードを除いて、関心を抱いたことがある人がどれだけいるだろうか。

 その理由としては、悲劇的な出来事の方が記憶に深く刻まれるという人間の心理的生理の要因もあるだろうが、一方には、「その後」の影響があまりに複雑すぎて因果関係や全体像を捉えることが非常に難しいというところも大きいだろう。

 「その後」を描こうとしたソルニット『災害ユートピア』や、ハーシー『ヒロシマ』などを読んだときに、そのことを強く感じたのだが、さりとて平易な著述の方法があるようにも思われなかった。(『災害ユートピア』は、渦中はうまく描かれているが、「その後」は不完全燃焼と感じる。ひとつには、資料が集められなかったこともあるだろうが、もうひとつにはソルニットの見込み違いにもあったように思える。後述。 また、ハーシーは複数の特定の人物の追跡取材を行うことによって、個人のライフ・ヒストリーとして「その後」を描けているが、個人に焦点を絞った必然で取材対象者の周辺レベルでの「その後」に留まる。)
 だが、本書を読んで、なるほど、こうした著述の仕方があったのか、と蒙が啓かれる思いがした。もちろん、地道な資料収集を含めた長期の研究期間があった上での成果だが、ここで提示された分析方法は、「著者による解題」に書かれているように、他の分析にも応用できるだろう。

 本書を読みながら、現在の状況と重ねて背筋がゾッとする感覚を覚えた人は少なくないだろうが、私もその一人だ。ここで書かれた分析は、そのまま原発事故後の日本の状況、そして私自身の置かれた状況に重ねることができるからだ。

 災害の際に社会秩序が揺らぎ、新しい社会変化を求める動きは、東日本大震災と原発事故でも起きた。その変化を求める動きは、既存の社会秩序との軋轢を起こし、人びとのあいだに深い分断をもたらしたことは改めて言うまでもない。そして、多くの人が期待をかけ、労力をはらった「復興」への幻滅、そこから起きるフラストレーションは、いま現在、被災地を中心とした復興にかかわった人のなかに同じように充満している。
 そして、おそらく、人びとはその社会の亀裂を封じるために「風評」という「社会的装置」を駆動させることを望んでいる。

 本書で著者が「社会的装置」として提示する冷戦について、それが現実にまったく存在しなかった想像上の産物=「虚構」という意味ではなく、虚構と現実は連続的なプロセスであると述べているように、「風評」が虚構の存在であり、実際に存在しない、と言いたいのではない。風評と呼ばれる状態は、現実に存在したし、現在も存在している。

 だが、その実態を越えた「現実」を多くの人びとは求めている、と2015年頃からずっと感じてきた。それは、本書での「冷戦」がその実態がいかなるものかを考える以前に、既にそれが存在する所与の現実と疑いなく信じられ、その内実が問われなくなっていくプロセスと重なっているように思える。風評についての社会的な駆動が、韓国・中国といった国外が風評を意図的にばらまく「仮想敵」として浮かび上がってきた時期に強まったところも正確に共通している。

 ここでの「風評」装置は、風評そのものを払拭するよりも、社会秩序を脅かす異論や存在を封じることを真の目的としている、と考えると、実際の価格回復といった現実的な課題対応よりも言説的な応酬にばかり力が注がれる、不可解な状況の辻褄がぴたりと合う。

 こうした社会的装置を求める人びとの情動は、必ずしも、悪意や敵意ではないところが難しいところだ。それを支えるのは、元の落ち着いた社会を取りもどしたい、自分のこれまでの努力が報われたいという、真面目なひとりひとりの生活者の素朴な願いであったりする。しかし、そうした素朴な願いが、凶暴ともいえる抑圧的な社会装置となることには、戦慄を覚えざるを得ない。というのは、私自身が、封じられる側の存在に他ならないからだ。

 私は東日本大震災と原発事故の直後に起きた変化の兆しを体現する動きを行ってきた、と言っても言いすぎではないと許してもらえるだろう。本書で描かれた社会の変化を求め、コミュニティから孤立していくヘレン・マクマーティンのような存在は、私にとっては他人ごとではなく、まさに自分自身のことだ。そうした観点から見ると、本書はソルニット『災害ユートピア』の後日譚、あるいはサイドBであるともいえるかもしれない。それは、ソルニットが期待した帰結、つまり、人びとの自主性と自然発生的な協働が、新たな風通しのよい相互扶助的な秩序を生み出す、とは正反対のものとなる。

 末尾の「著書解題」でヘレン・マクマーティンが1960年代後半に反戦運動の旗手として返り咲いたという後日談が書かれていたのは、大きな救いだった。本書は優れた内容ではあるけれど、「著書解題」がなければ、私にとっては絶望の書となったかもしれない。「包括的な記述」の必要性という側面ではなく、読者への救いとして、後日談を書いてもらったのはよかったと感じるし、また書く必要があった、と私は思う。(「著者解題」は要約としても優れているし、本書を読んで多くの人が抱くだろう疑問についても、たんなる回答を超えた著者の思想として回答してあるので、最後まで読むことを強くお勧めする。)

 福島で巻き起こっている「風評」は、おそらくは、今しばらくは、人びとの社会戦争を封じるための社会的装置として席巻を続けるのかもしれない。その先にあらわれる世界がどのような姿をしているのかは、まだ漠としている。よいこともあれば悪いこともある、捨てる神があれば拾う神もある。私自身は、ヘレン・マクマーティンの復活劇を胸に、喧噪のなかを生き延びていくしかないのだろう。

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