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福島復興あれこれ:生活者へ寄り添った復興を求める

安東量子

 昨日、原発事故に対する責任を求めた訴訟の国に対する最高裁での判決が出ました。東電に対する賠償責任は既に確定済みでしたので、国の監督責任を問うかどうかが焦点になっていましたが、国には責任はない、との判断になりました。
 法的な責任を問えるかどうかは、日本の最高裁の保守性を前提とすると、津波の予見性が焦点となった段階でかなり難しいのではという気はしていましたが、原告の皆さんのみならず、おなじ心情を共有するであろう県内の方々の、やりきれなさはとてもよくわかります。
(個人的には、津波が予見できようができまいが、浸水して使えなくなるような場所に発電機を設置、発電機が使えないような状況を発生させたという時点で、法的に責任を問えるかどうかは別として、安全管理、リスク管理としては大失敗以外のなにものでもないと思っています。)

 朝日新聞の記事のなかでコメントがとりあげられた原告の方は、間接的に存じている方(複数)でした。自分のために、地域のために、仲間のために、社会のために動くことを苦とされない、よき「生活者」の方たちです。

 わたしは、福島県内に残った人たちの生活回復をエンパワメントする活動をすると同時に、自主避難の方の立場も擁護する立ち位置を一貫してとっています。その理由は、在住者をエンパワメントする活動をする人間が、避難者を批判するようなことをしたら分断が救いようがないものになる、ということもひとつですが、もうひとつ大きなものには、自主避難者のなかに知人・友人がいるからです。そして、その方たちは、みなさん、よき「生活者」です。自分の暮らしを自分で守り、友人を助け、困った人の力になり、地域やコミュニティの活動に参加し、活気づけようとし、よりよい社会にしようという向上心をもった方たちです。客観的に見て、わたしよりも遥かに社会に寄与している方ばかりです。

 わたしは、よき生活者の主張・行動には必ずなにかしら理がある、という大原則に従うようにしています。仮に、主義主張が正反対であって、結論に同意することはなかったとしても、それでも、生活者の行動と考えには、必ずなんらかの理があり、耳を傾けるべきは、結論よりも、その「理」の部分であると思っています。

 なぜなら、社会の基盤をなしているのは、多様な価値観と暮らし方を持つ「生活者」だからです。社会をよりよくしようと考え、実際に動いている生活者をないがしろにする社会に明るい未来は開けません。

 今回の判決を受けて、松野官房長官が以下のようなコメントを出しました。

判決後、松野博一官房長官は会見で「引き続き被災された方々に寄り添い、福島の復興再生に全力で取り組みたい」と述べた。

本文より

 ここで指摘したいのは、いったい誰に寄り添っているのか、ということです。
 わたしの見るところ、現在の政府は「自治体」と「(ほとんど被災さえしていない)利権関係者」にのみ寄り添っており、「生活者」に寄り添っているようには見えません。その結果、なにがおきているかというと、住民不在の復興政策です。それが端的に表れているのが、福島県が2018年に作成した「MIRAI2061」という50年後の福島の将来を描いたムービーです。(現在は公開終了とのことで、サイトのみ見られます。)

 わたしの話した地元の方で、これを肯定的に評価している地元の生活者には、ただのひとりにもお目にかかったことがありません。よくて「まあ、こんなの作るだけのお金があるんだね」「役所はこういう派手なの好きだね」「勝手にやってるだけだし」「夢を見るのは自由だけど」という冷ややかな感想ばかりでした。

 一方、国にしてみれば、こうした現実離れしたプランが「地元自治体」から出てきたのだから「寄り添おう」ということになるのでしょう。ここで、生活者はさらに置いてけぼりになります。もちろん、生活者の意見を汲み取れない自治体側にも多大なる責任はありますし、そこに物申せない地元住民にも責任はあると思います。
 ただ、国が原発事故に対して「社会的・道義的」な責任はある、という立場をとるならば、復興予算をざぶざぶ自治体と(ほとんど被災さえしていない)利権関係者に流して、格好だけの復興の体裁を整えるのではなく、生活者が真に復興したと思えるようなあり方へ今からでも軌道修正してくださることを強く望みます。

 ここであらためて問われるのは「復興とはなにか」です。自治体にとっての復興とは、上記のMIRAI2061にあるように、箱物だけがキラキラ輝き、統計的な意味での住民が数として存在するだけの空虚な復興です。
 一方、生活者からしてみれば、生活環境の自律性の回復こそが復興になります。

 先日、たまたま見つけた論文「原発事故被災からの回復のための政策課題」に、同じようなことが書かれているのを見つけました。(著者の方は存じません。)

 ここでは、PTSDからの回復について書いたジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』を参照にしながら、「原発事故被災からの回復は、元に戻ることではなく日常性を取り戻すことである」と述べられていますが、同感です。災害からの復興は自律性の回復である、ということは、災害心理学のビヴァリー・ラファエル『災害の襲うとき』 でも指摘されていたと思います。災害学の観点から考えたときに、「復興=被災地、被災者の自律性と日常性の回復」というのは、前提となるべき考え方ではないかと思います。自律性とは、すなわち、生活者の尊厳にほかなりません。ときに助け合いながら、自分達で自分たちのことを決め、実行し、地域や生活を回していくことができる。こうしたごく当たり前のことこそが、復興の目指すべき到達点ではないでしょうか。

 ひるがえってみれば、現在の復興のあり方は、「寄り添う」という美名のもとに、中央依存を強めさせる構造となっており、生活者が自律性を回復する方向性とはまったく逆に向かっているようにしか見えません。目指すべきは、とうてい管理しきれない不相応な箱物が乱立するドリーム・ワールドではないと思います。

 ちなみに、時事通信の記事に、現在の移住者を含めた「帰還率」が記載してあります。ここでは触れられていませんが、山間部の解除地域においては、既に人口が減少フェイズにはいっている地域もあります。日本全国を急速に襲う人口減少基調に解除地域もふたたび入り始めた、ということになろうかと思います。「帰還率」という数字の出し方は、もはや適当ではないと思います。




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