ほめること04

コウと関わる時に私が考えていること(後編)

前編の続きです。今回は、コウと関わっていく上で私がとっている具体的な言動や、そのもとになる考えについて書いていきます。


1.ルール、約束事のメリットと重さを伝える

私はコウに対して、「起きた出来事からコウが何を学習しどのように動くのか(あるいは動いたか)」を推察することで彼との関わり方を決めています。それと同じことを、コウにもしてもらうようにしています。

例えば、庭で水やり中にバッタを見つけて、コウに知らせたとします。バッタをつかまえて「観察できる!」と喜んでいるコウに、考えてもらいます。

私「バッタうれしいね。お母さんも、コウがそんなに喜んでくれて『教えてよかったなぁ』って思っているよ。」

コウ「そっかー。おかあさん、ありがとう!」

私「けれど、この後コウが宿題をやらずにバッタにばかり夢中になってしまうのではないかと心配な気持ちもあるなぁ。」

コウ「そうか・・・もしそうなったら、お母さんは『バッタがいるって教えなきゃよかった』って思うね。」

私「うん。そうしたらお母さんは次からどうするかな?」

コウ「バッタを見つけても、『またコウが宿題をしなくなったら困るから、教えないでおこう』ってなる。そうなったらボクは困るから、宿題をシュバッと終わらせてから観察した方が良さそうだ。ついつい見ちゃわないように、宿題が終わるまで玄関に置いておくよ!」

私「いいね。玄関に置いておけば、『ついつい』が防げて安心だね。いいアイデアだね!」

・・・という感じで、コウはドヤりつつ宿題を始めました。このまま終われば「いい話」なので、このまま終わるようにテコ入れをします。


2.分かりやすく成功体験をしてもらう

ヘッダーコウ折り紙 - コピー

基本的に前向きでやる気に満ちているコウではありますが、彼の持つ「めんどくさい」の強大さと、それへの彼自身の耐性のなさはハンパないものがあります。それは失敗体験を増やすだけでなく、折角の成功体験を台無しにすることすらある程です。

「きちんと考えた。お母さんにもいいねって言われた。やる気も充分。けど上手くいかなかった。(途中でめんどくささに負けた)」という体験は、コウの中で「結局ダメじゃん!」に回収されていきます。

ゲームに例えれば「途中まで上手くいっていたところで最終ボス『怪獣メンドクサイ』に負けただけ」という状態であって、決して途中の選択や行動が間違っていたわけではありません。

コウは『めんどくさい』に弱い属性を持っているので、そこを補いつつ『やる気ゲージ』が尽きる前に終わらせるというのも1つ方法かと思います。地道なレベル上げをしてもよいでしょうし、方法は色々あります。ステージクリアに向けてこの調子で進んでいけばよいのであり、何も失敗や損はしていないと私は思っています。

ですが、コウからすれば「結局クリアできなかったじゃん!全部ムダだった!」になる訳です。

毎日アドベンチャー

なので、私はできるだけ「成功体験が成功体験になるように」サポートします。

疲れて集中力を失わないよう「コウが頑張ってるから、お母さんも協力するね!」という形で負担(ランドセルなどの片付け)を減らすと、「お母さん、ありがとう!」とコウも何とか踏ん張ります。ゲームでいうなら難易度を『イージーモード』にするわけです。

多分、コウにとっては「調子の良い日にサポートを受けつつ行う宿題」がノーマルモード程度の難易度で、「調子の悪い日に一人で頑張る宿題」はベリーハードモードなのだろうと思います。そこに私が手を貸すことで、何とかハードモードの状態にまで難易度を下げている感じなのではないかな?と考えています。

「もう半分終わったね」「字がマスに収まるようになってきたね」と、できるていることの自覚を促しつつできるだけ鼻先のニンジン(玄関の虫かご)のことは忘れてもらいます。気が散るからです。既にそこにあると知っている楽しいものが手に入らない現状が辛くなるだけだからです。


3.利用に制限をかけたいものは貸出制にする

手続き01

利用に制限をかけたいものは大体貸出制にしています。ゲーム機などがそれにあたります。お年玉などで子どもが購入したゲームソフトは子どもの物なので勝手に取り上げたりはしませんが、本体は親の私物なので使用制限を設けることがあります。

そうすることで、「子どもの物を親が取り上げて生活を脅かす」という形は避けつつ、行動に一定の制限をかけて「損をさせる」ことができます。(友人の家で私物のソフトを遊ぶことは問題ないと考えています。部活や習い事もあって、無制限に遊びに行くことはできないからです。)

「ゲームに夢中過ぎて生活が立ちいかなくなっているので」という理由で制限をかけると、コウはしぶしぶながらも納得します。自分の状態を自覚すれば、このままではマズイということは分かるからです。(事前に、分かるように説明をしておきます。)

他人の気分を害することによる損を知ってもらうために「親は損をして、不愉快な気持ち。だから貸したくない。」と伝えることもあるのですが、数は少なくなるようにしています。あまりにそれが続くと根本的な解決(ルールや約束を守る)をせずに、機嫌をとることで解決しようとし出すからです。

※それに関して、コウには、「それは間違えて塩を入れてしまったコーヒーに砂糖を入れて中和しようとするようなものだ。『甘い』で『しょっぱい』は打ち消せない。塩を入れるなと注意されているのに、『じゃぁ砂糖入れるね?どう?これで飲める?』っておかしいだろ?」と伝えています。


4.「できていないこと」に善悪の基準を持ち込まない

朝の時間

できていないことの理由が「気持ちや姿勢の問題」のように見えたり、事実そうだったりする時、その気持ちや姿勢が変われば状況は改善するように見えることは多いと思います。

実際、そのようにして変わっていく子どもも一定数いるだろうと思います。多いのかもしれません。でも、コウはそうではありません。

例えば、片付けをしない理由が「めんどくさい」だったとします。なぜめんどくさいのか、どうしたらめんどくさくないのか、めんどくさいまま頑張れるとしたらどういう方法があるか、どう考えれば気持ちが変わるのか、一緒に考えるようにしています。

やらなければならないことが「めんどくさい」ためにできないことで、不利益を被るのはコウだからです。私は、コウの「めんどくさい」を理由として認めますが、それを理由に状況を放置することは良しとしません。手は貸します。コウをサポートすることは、親である私の仕事であると考えているからです。

※仕事という考え方には賛否両論あるかと思いますが、私は養育に対して「責任のある仕事」の感覚でいる部分があります。また、仕事なので委託をしても良いと考えています。自社の業務として発生している仕事なので、委託先が信頼できるところであるかは気にしますし、レポートだけに頼らず現場がどんなところなのか確認することが大事だと思っています。任せられる委託先(療育施設など)が現状なく、資金も厳しいので自社で業務を回していくしかない状況ですが・・・。

※コウには「多くの人は気持ちや姿勢を重視すること」を伝えるようにしています。「気持ちや姿勢が変われば行動も変わるはず」という考えが前提にあることや、その考え自体間違ってはいないこと、コウにも当てはまっている部分は大きいことを話しています。


5.「できていること」に「できてるね」と言う

炊飯

以前マンガにも描きましたが、「できていること」に「できているね」と言うことは大切だと思っています。前述の『2.分かりやすく成功体験をしてもらう』も、「できている」をはっきりさせることの1つといえるかもしれません。

生活の中には、「できている」と「できていない」が細かく混ざっています。ハサミが上手に使えない時、ハサミを使えているか否かにしてしまうと「ハサミの使い方を知っていること」「ハサミを手に取ること」「ハサミを使おうとしていること」も『否』の中に入ってしまいます。

ハサミの使い方を知っている。手に取り、使おうとしている。それを土台に練習を積み重ねることで、「ハサミを使える」は着実に近づくだろうと思います。

でも、それはコウの目にはよく見えなかったりします。「使えないならもういい」と心が折れて、諦めたりヤケになったりします。そういう時に支えになることは、過去の成功体験だと思います。1個や2個ではない、たくさんの成功体験が必要です。普通に生活しているだけでコウには失敗体験が重なりやすい上に、それは記憶に残りやすいからです。

公園と道路01

1個や2個では、たまたまかもしれません。「できるかも」を支える確率の高さが必要だと感じます。でも、コウは周囲から『そんなのできて当たり前だろ。普通だろ。』と言われます。「普通」が成功体験であることに気付きづらいのです。

赤ちゃんが立った時、歩いた時、「そんなの普通だろ」と言う人は少ないのではないかと思います。特に疾患や障害を持たない赤ちゃんであれば、歩くのは普通のことです。なのに、多くの人は褒めて喜び、「できたね」と言います。できなかったことができるようになったからです。

人類皆赤ちゃんから人生をスタートさせていきますので、全てのことは「できるようになったね」だと思います。生きていることも、生きていたことも、生を受けた以上すべてのことが「できるようになった」に該当するはずだと考えています。

「できている」を積み重ねて、「できている」を増やすための『見通し』を持つことが大切だと思っています。でも、見通しばかり提示されると息切れを起こします。できるだけ、本人の欲に火をつけたいと思っています。「できそう」の下地を作り、「ハサミを使うとこんなことができるよ」と提示し、「やってみたい」を充分にやらせ、飽きた頃に次のできることを探すとよいのかもしれないなぁと思います。

それは理想論であって実際には中々難しいかもしれませんが、赤ちゃんなど見ていると、そんな感じかなと思います。コウは目先が変わっただけで刺激が満たされやすく、新しいものより「分かっているもの」に固執する部分もあるので、新しいものも視野に入るように、触れられるようにとは思います。

コーヒーを飲みに行ったり本や苗を買ったりすると思います。