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8/31どうこうでなく、ほぼ一年中憂鬱だった子供の話。

「8月31日の夜に」のタグで今年は何か書こうかなぁと思ったけれど、何をどう書いていいのか分からない。

私は現在ASDとADHDの診断を受けてストラテラを飲んでいる人で、かつてイジメられたり仕事で挫折しまくったり死のうとしたり蒸発しようとしたりした人で、現在は一応手に職を持ち1児の母で、何かしら書けそうな条件は揃っているように思うけれど、何をどう書いていいのか分からない。かつての自分に届ける言葉がない。

8/31に誰かの言葉が欲しい子供は、多分友達や本や音楽や勉強や家族ではどうにかならない憂鬱さや苦しさを持っているのではないかと想像してみたりする。かつての私はそうだった。

私の場合、親は学校に行かなくてもよいと言った。けれど私は学校に行った。だって、学校に行かないとして、これからをどうやって生きれば良いのか全然分からないから。


今は、以前よりも「学校に無理して行かなくてもいいよ」という声が大きくなってきたと思う。いいことだと思う。図書館などの居場所も立候補してくれる。いいことだと思う。

でも、一時は息がつけたとしても、これから先の人生はどうすればいいのか。

当時私は分からなかった。いつか上手くやれる時が来るとは思えなかったし、これからはもっと「やらなければならないこと」が増えて、子供の頃は『いいよ』って言われていたことが大人になるに従って段々許されなくなって、なんかもう、そんな中で寿命が尽きるまで息継ぎしていくしかないのだろうと思っていた。

「これからも、起こって欲しいことは起こらなくて、起きないで欲しいことは起こって、きっと私の一生ってそういう感じなんだろう。」

と、小学生の頃には思っていた。殴られ蹴られ踏まれることを分かった上で毎日学校に通った。「どうか今日1日無事に過ぎますように」と思わなくなっていった。校歌を歌う度に、「『正義の意気は燃る』の正義は私を守ることはないし、『皆仲良く励む我ら』の中に私は入っていないんだな。」と思った。


高校からは自分に合いそうな環境を選ぶことで大分楽になったけれど、働くようになると再びつまずくことが増えた。

そんな私が現在何とか生きているのはどういう訳が考えてみると、「先のことを考える」と「場当たり的に動く」のブレンド具合が良かったのかもしれないな、と思う。先のことを考えすぎると息が詰まる。目の前のことばかりに向き合っていても展望が見えてこない。

いつも、できることとできないことを考えていたように思う。できることに向かってじりじりと進んで、できないことを洗い出すようにした。今思うとワンオペになる仕事はどう考えても合っていないのだけれど、当時はそれが分からなかった。それくらい、自分のことが分かっていなかった。

「普通できる筈のことができないのはやる気がないから」という言葉にスイマセンと避けてもらって、ひとつひとつ自分の情報を集めた。「誰にでもできる簡単な仕事」の筈のことができない自分に戸惑ったり傷ついたりしながら、とにかくにじにじと匍匐前進をした。

大人になると、決めないといけないことや選ばないといけないことは増えた。けれど、決められることや選べることも増えた。

ありきたりなことだけど、それは多分救いになったと思う。


趣味でも何でもいい。できる範囲でよいので、社会や人と繋がりを持っていると後々の健康に良いような気がする。無理をしないでいられる場所だったら何よりだし、少しの無理が必要なところなら、少しの無理がきく時だけ繋がってみてもいいと思う。

本や映画も、繋がりだと思う。誰かが作ったものだから、誰かの話を聞いているようなものだと思う。

友人には恵まれたのが幸運だったと思う。未だに、保育園からの付き合いの友達と遊ぶこともあるし、専門学校の時の友人とお茶することもある。元来不精な方なのだけれど、私と友達付き合いができる貴重な人は大事にしようと思ってそこは何とか時々連絡を取り合うようにしている。「さっちゃんは絶対LINEすぐ返ってこないよね!」と言われることもあるけれど、大目に見てもらっている。ありがたい。


今になれば、学校は行かなくても良かったのだろうなぁと思う。一方、あの時はそうするしかなかったとも思う。学校に行かない私を、きっと私自身も家族も持て余した。

それは、持て余さないようにすれば学校へ行かずとも良かったということなのかもしれない。家庭学習をして、本を読んで、絵を描いていればよかった。学校に行くことで、得られたものより失ったものが大きかった。

学校と家庭しか場がないと、多分つらい。

あの時の私にもしアドバイスがあるとするのなら、「学校でも家庭でもないところを探してみるのはどうだろうか。」なのかもしれない。

「頭でっかちと言われても構わない。沢山本を読んだらいい。児童書はもう読み飽きてるなら、大人向けの本だって読んでもいいんだよ。専門書も面白いよ。別に役に立たなくたっていいんだよ。」と言うのもいいかもしれない。

体を鍛えるのもいい。体は一生ものだから、適度な運動習慣はどんな人生を送るにしても持っていて良いものではないかと思う。体育は苦手でも、ストレッチや筋トレ、散歩は自分のペースでやったらいい。人目が気になるならエアロバイクもいいと思う。

そうして、出来る範囲で自分を守って、出来る範囲で力をつけていると、どこかで嵐が止む瞬間がある。

もう動く元気なんてないと思っていても、多分大丈夫だと思う。何の根拠もないけれど、嵐が止むと、景色も見えるし音も聞こえる。喉が渇いているなら、沢の音を聞けば多分歩きたくなる。日差しが辛いなら、隣にある木陰に入りたくなる。


8/31が辛い人は、8/31も含めた辛い期間が「通り過ぎる点」であると知っていてくれることを願う。何があろうと、必ず通り過ぎる。時間は過ぎる。

通り過ぎるのだから耐えろとは全く思わない。通り過ぎるのだから「通り過ぎた先」に向けて、どうか気力体力を残しておいて欲しいと願う。耐えるのなら、耐えられる状態で耐えて欲しいと思う。嵐の中に、風よけを見つけられることを願う。嵐に潰されないように、飛ばされないように。

風の止んだ時や弱まった時に、少しずつ少しずつ、息をしやすいところへ移動できますように。


通り過ぎた人より。


#8月31日の夜に

コーヒーを飲みに行ったり本や苗を買ったりすると思います。