丸善の書棚にレモンを置いて逃走したい

かつてアライグマのパスカルは、「人間は考える葦である」という格言を残した。水辺に生える葦という植物にスポットライトを当てたこの言葉は、実にアライグマらしいユーモアに溢れている。

この言葉を知った中学生は必ず、「じゃあなにも考えていない人間はただの葦なの?」という疑問と直面する。いくら考えても大した答えが出てこないニキビ顔は、10分くらい立つと飽きてきてチンコをしごいて賢者となる。せっかく賢者になっても答えは生まれない。

中学生時から10年近く経った近頃、たまにこの言葉を思い出しトイレで尻を拭きながらふと考えることがある。深淵をのぞきすぎるとトイレットペーパーを押さえる指がついつい立ちすぎて、汚い深淵が開発途上国になることもしばしばだ。こんな真面目な内容を馬鹿みたいなタイミングで考えられること自体、数学者ラスカルが言わんとする「思考できる幸福」なのかもしれない。

ただし考えるというのにも個人差があって、10秒で決定できる内容を1分も2分もかけて考えてしまう人がいる。思考力というよりも決断力の優劣に近い話かもしれないが、思わず「そう思うならそうすればいいじゃん」と言いたくなるシーンが多々ある。今noteを書きながら自分を顧みてもギクッとするので、人間そういう節が少なからずあるのかもしれない。

こうしたことを踏まえるとギャンブル、ひいては競馬というのはなかなか面白い。馬の着順というどうでもいいことを真剣に考えることができる幸福。決断力が垣間見える馬券の買い方。当たればクリスマスツリー並みに装飾された葦、外せば枯れて土になった死んだ葦といったところだろうか。枯れはてて土になった葦は次に生えてくる葦の糧となる。

僕が歴史に名を刻んだ暁には、「博才は99%の決断力と1%の運である」という名言を残し死ぬ予定である。大して目新しさはないが、ギャンブルにこの要素ほど必要なものはない。即決できる予想の軸がないという意味でも、優柔不断な人間に博才はないだろう。

大して中身のない短文投稿だが、スナックで吉幾三の「酒よ」をデュエットしたおじさんと丁度こんな話をしていたら無性に文章を書きたくなったので久々に更新した。

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