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【ショートショート】1985年の贋作小話 その78 「雨月物語」

 学問所の新右衛門先生は昨日あたりからちょっと元気がありません。授業も上の空で、窓の外の曇天ばかりを眺めています。生徒たちはこれ幸いと居眠りをしたり鼻をほじったり、なかにはそっと教室を抜け出す輩もいました。それでも新右衛門先生はたしなめるでもなく叱るでもなく、空を眺めてはため息をつくばかりでした。
 ただひとり、新右衛門先生をとても心配している生徒がいました。まだ小さい長太郎です。長太郎は山の天狗の子どもなのですが、どうしても人間の勉強がしてみたいと、お父さん天狗といっしょに新右衛門先生に頭を下げに来たのが半年前のことでした。新右衛門先生はそれを快く引き受け、勉強熱心な長太郎を親身になって指導してあげていたのです。
「新右衛門先生、お元気がないようですがどうされたのですか」
 長太郎は授業が終わると新右衛門先生のもとに駆け寄りました。新右衛門先生はちょっと言いにくそうにしていましたが、きっとだれかに聞いてほしかったのでしょう、次のようなことを打ち明けてくれました。
 新右衛門先生は学問所の先生でもあるのですが、その一方で将軍様のお歌の指南役でもありました。時の将軍様は風流人を自認され、たいそう立派なお歌も作られることは皆も知るところです。二日前の夜も将軍様は新右衛門先生とお歌の談義をされておりました。
「雨の降るも風流であるがの、こう毎日雨ではのぉ、たまには月も愛でたいというものよ」将軍様は言いました。季節はまさに梅雨。しとしと雨が毎日続き、月を拝めるのは当分先のことになりそうでした。
 新右衛門先生を困らせたのは、将軍様の突飛な思いつきでした。
「余は雨の夜に月を愛でてみとうなったぞよ。これこそいまだ誰も見ぬ風流の極みというものよ。新右衛門よ、なんとかせい」
 新右衛門先生は将軍様から無理難題を押し付けられていたのです。雨の日に月をのぞかせるなんてできるわけがありません。新右衛門先生はほとほと困ってしまいました。
 長太郎はお世話になっている先生の窮地をなんとか助けてあげたいと、長い鼻をあっちに向けたりこっちに向けたりして一所懸命に考えました。どうすれば雨の日に月をのぞかせることができるのか。そして、長太郎の冴えた頭に、ピンと豆電球が光りました。
「新右衛門先生、なんとかなるかもしれません。明日の夜、亥の刻に将軍様といっしょに東の空を眺めていてください。きっと月をのぞかせてみせましょう」

 将軍様と新右衛門先生は縁側に出て東の空を眺めておりました。相変わらず雨はしとしと降っています。暗い空にも分厚い雲がすき間なく垂れこめているのがわかります。新右衛門先生は長太郎の約束を信用してはいたものの、気が気ではありませんでした。将軍様は月が出てくるのを今か今かと本気で待ち望んでいます。
 亥の刻になりました。東の空のずっと向こうの雲が、少しだけ揺らいだような気がしました。そう思った次のときには、その揺らいだあたりの雲だけがだんだん渦を巻いてくるように見えました。雲は何かに蹴散らされたように、だんだんと外側に散っていきました。散っていく雲のあとは、空にぽっかりと穴があいたようになりました。穴はうっすらと明るく、その向こう側に何か光るものがあることを知らせていました。最後の雲が散ってしまうと、そこには冴え冴えとした夜の色に浮かぶ満月が光っていました。雨は依然として続いています。月のまわりよりほかは厚い雲が垂れこめています。将軍様の目にも、銀色に光る雨筋と、それを光らせている遠くの月とが一枚の画の中に見えていたはずです。

 そのころ、東の山のてっぺんには国中の天狗たちが集結していました。赤い顔や青い顔、鼻の長いのやら短いの、高い下駄やら低い下駄、いろんな天狗たちが押し合いへし合いしていました。その中にはもちろん長太郎も混じっていました。「せーの、それっ」長太郎のお父さん天狗の号令で、天狗たちは手に手に携えたヤツデのうちわを空に向かってひと振りします。
「せーの、それっ」「せーの、それっ」長太郎も小さなうちわを力いっぱい振りました。天狗たちがうちわを振るうたびに、厚い雲が散っていきます。そしてあの、月の穴ができたというわけです。
 長太郎のお父さん天狗の一声で、国中の天狗たちがひとっ飛び、駆けつけてくれました。天狗たちはだれもが親切で仲間思いなのです。
 天狗たちの「せーの」は一晩中続きました。長太郎は新右衛門先生と将軍様がどれほどよろこんでくれているかと思うと、ひとつも眠たくはありませんでした。明日学問所に行ったら、新右衛門先生は自分をほめてくださるだろうか、いやそれよりも、天狗のことをもっと好きになってくれるだろうか、ずっとそんなことを考えていました。

                             おしまい


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