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エヴァと私

noteというものを初めて使うわけですが、今抱えているものを文章化したいがために起こしました。

題の通りです。
映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:II」のネタバレを多く含みます。
まだご覧になっていない方、そして
「映画を見た・エヴァという作品に関して自分なりの回答を持っていて、他の意見は許さない」とか
「反論の体制はできている」みたいな人は今すぐブラウザバックして下さい。
なぜならこれ以下に書いてあることは全て、何もかも一個人の感想であり、妄想であり、
私が私の中で完結したものをただ書き殴っているだけです。国語の成績2だった私がイカれた文法でドバッと書いてるだけです。

そこのところを承知した上で、もうあんまりにも暇すぎて仕方ないから公園の便所の落書きでも見るか、くらいの気持ちで見ていただければと思います。

以下、私とエヴァの今日に至るまでの過程と
先日公開されたシンエヴァへの感想です。

-STAGE.1.0 エヴァに触れるまで-

時は2001年(多分)--その時の自分はまだ小学校低学年ほど、エヴァなんぞとは縁もゆかりもなく
コロコロコミックを読み、勉強をサボり
典型的なゆとり世代小学生真っ盛りであった。
我々の世代も例に漏れず、コミュニケーションの手段として一番手っ取り早くみんなと仲良くなれるのがゲームだった。
当時、持っていれば人気者になれたハード「NINTENDO64」。スマブラ・マリパ・カスタムロボがあれば世はこともなし。
ある時、仲の良かった友達のO君(兄貴がトップオタ)の家に遊びに行った時、「おい、兄貴が新しいゲーム買ってきたからやろうぜ」と提案してきた。
その時はボンバーマンとかマリオカートなんじゃないのと思っていたが、64本体に刺されたのは赤い十字架の上に文字が書かれていた不気味なソフトだった。
えっ、怖--なにこれ、と聞いたら「知らねえの?エヴァンゲリオン」と。
いやなにそれwでもバトルできるならやろうぜ!と起動したが…
隠しコマンドでしか出ないバトルモード、なんかキモいロボがくっそ遅く動く、長いタマネギみたいな体力ゲージ、殴るときにゾンビみたいな声出す、メッチャヤバい顔で戦う搭乗者、少年の自分にトラウマを与えるには十分な条件の揃ったホラー映像だった。
結局そいつにいわれるがままバトルっぽいモードをし、こんな変なロボがあるの?と聞いたのがもう全ての始まりだった。
そのO君が俺の人生を狂わせたと言っても過言ではない。
その日、俺は初めてエヴァンゲリオンに触れた。

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※少年の運命を変えた恐るべきソフト

その後、そいつの家で漫画(貞エヴァ)を読んだものの、一巻から既によくわからず、モヤモヤしているところ翌日に学校で
「エヴァンゲリオンって知ってる?」と友達に聞き回った。
で偶然にも、当初からかなりのトップオタ気質であったI君がたまたま「前にやってた再放送のビデオ録画あるよ!」と。
なんたる偶然、だがそこで「あっ、みんなひょっとしてエヴァンゲリオン見てるんだ?おれんちは有線放送が引かれてない(静岡であるのも原因)から見れないだけなのか?」とも思いつつ、とりあえずそのビデオを借りることに。
後から知った話だったがどうやらIが見ていたわけではなく親が見ていたらしかった。

その日、I家に遊びに行って一通りメダロット とかポケモンやって遊んでから、俺はそのビデオを借りた。VHSが3本、表表紙には「新世紀エヴァンゲリオン1〜3」の文字。
俺は1話から食い入るように、そのビデオをいった。初めてガッツリ見たロボアニメは新鮮だった。
1話から見続けているうちに、小学生ながら先の読めぬ展開、必ず勝つみたいな強さを持っているわけではないそのロボが、どうしても俺の心を掴んでいた。

この中間(アニメ中期〜24話まで)に挟まる感情については情報が多すぎるので省略。

切羽詰まり、24話を見た時点での俺の精神状態は尋常ではなかった。
エヴァの話を理解しきれているわけじゃなかったが、主人公がウジウジしながらも訳わかんない敵と戦ったのに、最後の敵が友達で
その友達を殺してしまった、というところだけは分かった。
俺はもう気が気でなかった、が、そこで例の最終2話である。
当初の俺は、怖くて数日寝れなかった。
訳がわからないうちに平和になったかのように見えるが、なにも解決せずにわけわからない結論を突きつけられたあの後味が本当に恐ろしかった。借りていた期間中で5周くらい見たと思う。
親にも心配された。

-STAGE.2.0 旧劇場版を見る-

その後、周りの友達でO以外(Iも別にエヴァは見ていなかったのであんまり深い話はなかった)にあの結論は何なのか、訳がわからない、みんなどうなったの?という答えを探して少しでもエヴァを知ってる人と話がしたかったが、エヴァを見ている友達もおらず困りにこまった。Oも「ワケわかんないよね」くらいしか言わない。
結局、VHSはIに返却し、そこから数年エヴァへの疑問は消えないまま
買ったコミカライズ版をたまにペラペラと見返す程度に過ごしていた。

だがそこから4年後、家の近所にTSUTAYAができたことをきっかけに、ついに気になっていた「EOE」を借りたのだ。
ここでEOEを見た時の衝撃を書きたいところだが、私が言語化できる感情の範疇を越え過ぎているので
とても俺の知る人類の言語内にあの当初の感情を書き切る事などできない。
本当に情けない。
十二歳そこらの俺にとってあの映画はまさに世界の終わりの形を見せられたようだった。今まで見たどんな映画でも、人類が滅亡したなんてオチはその時見たことがなかった。それを、アニメでって……アニメって子供向けのものなのにと思っていた分なおさら立ち直るまでに時間がかかった。

-STAGE.3.0 厨二病の発症とエヴァ-

中学に入り、14歳になるのが恐ろしくて仕方なかった。
なぜならチルドレンになれちまう年齢だからである。
だからその前にエヴァの知識を少しでも多くつけないと…(??)と本気で思っており、
更新されぬままであったがたしかに新劇場版の制作を告知する黒い画面のHPを見て、
この作品はまだ終わっていない、これからまた新しいエヴァが来るなられば準備をしなければ…と思っていた。
古本屋にあったチープな考察本からシネマブック、旧約・新訳聖書和訳本
またその当初公式見解として一番真髄に迫った情報を得られるゲーム「新世紀エヴァンゲリオン2 作られしセカイ」をプレイしていたりした。
なお、エヴァ2に関しては限定盤ボックスを金を貯めて購入したこともあり、
その時に付属していたビデオUMDにて劇場版を本当に腐り落ちるほど見尽くしまくり
台本なしで映画のセリフを全て暗記する全てのシーンをコマ送りでひたすら見続ける映像内の文書を全て書き取る生命の樹の写本(数学のノート)を作る、など
目も当てられない最悪の厨二を発症、さらにこれだけでは飽き足らず
当初覚えたてのHP作成術を駆使して、親の目を盗んで家のパソコンから
闇のエヴァ考察サイトを作成
、狂い尖ったガキのくそ考察をこれでもかというほど展開し、BBSで反発をする者には牙を剥き持論を展開ていた
思い出すだけで辛いが、これもたしかに俺とエヴァの一部だった。俺は、エヴァに描写されたありとあらゆる部分になにが隠されているのか知りたくて仕方がなかった。
エヴァの沼にズブズブとハマっていく。

-STAGE.4.0 新劇場版-

「序」は実は劇場で見ていない。当初中学生、金はなく、仕方なく後々破が公開される前あたりに見たのを覚えているが、
あまりに綺麗になり過ぎたその本編映像にただただ感動した。ああ、あの古いアニメがこんな感じになるんだ!と。
破は劇場で見た覚えがある。あのラストをはじめとして、新しいキャラクター、知らない敵、単なるリメイクじゃないんだ!別の世界線か…?とワクワクした。これもまた、何度となく見返した。

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高校の時、ようやく身の回りにそれなりにエヴァを知ってる人間が現れ始めた。
だが俺が一度エノク書が〜だとかマタイの福音書によると〜とか、
バカくそに痛い知識のひけらかしを兼ねた考察を喋ってしまうばっかりに
どうしてもエヴァいいよねって話を気分よくできる相手を作れなかった。バカ。
せっかく他校の女子と行ったカラオケでも、女の子が残テを歌ってた為に俺がハネ上がってしまいドン引かれたこともあった。
死にたい

やがてそんなこんなで、常日頃からなにかしらエヴァを気にかけて、新しい情報が出るたびに追うような、そんな作品になったエヴァ。
そして…上京して、自分の時間を多く確保できるようになり、憧れの東京。この後、「Q」の公開があった。
もう楽しみで楽しみで仕方なく、公開前にあらゆる考察をし、そして望むいざ川崎チネチッタへ……
だが俺を待っていたのは、全く予想だにしていない「全然知らんエヴァ」だった。

-STAGE.5.0 エヴァを作る人達への興味-

破からQの間に曲を作り始めていたこともあり、ものづくりへの興味が高まっていた。
そして、エヴァを作る人たちはどんな人達なんだろうと興味が湧いたタイミングがあり
そこから可能な限り、エヴァのスタッフ陣や監督のプロダクトを見漁りまくっていた時期がある。
ナディアに関しては実は小学生の頃に見ており履修済みだったが、改めて見返してみたり、いわゆる庵野監督作品、トップをねらえ!式日キューティーハニー彼氏彼女、果ては元ネタとなった特撮や影響を受けた作品と言われるスーパーロボット系ウルトラマンも調べたりみたりしていた。弟がウルトラマンに超詳しいのでちょっと話聞いたりもした。
いろいろ見ていくうちに、エヴァはこの人のやりたい事を凝縮したものなんだと何となく感じ始め、同時に庵野監督自身を投影をしている作品であることにも気づき始めた。
それが大体確信に変わったのはQであり、今までのエヴァを支配してきた淡々とした雰囲気を壊し、そのあたりから「ひょっとしてこの人たちはエヴァをああいった(旧版)結論にしたのは不本意だったのではないか?」とも思うようになった。

旧ガイナックスでの出来事、世論、その後のスタッフたちの動きや作品、作風についても調べた。
調べれば調べるほど、旧エヴァとは何かが違うものを感じ、のちに出てきたシンゴジラにおいても同じく、その辺りから「監督の趣味嗜好」を感じるポイントはここなんじゃないかと、なんとなく理解できるようになってきたと思う。
ちなみに、どれも大好き。
シンプルに俺はこの人の作品が好きだな〜と思う。
そのあたりで、今の世の中のエヴァへの見方が
庵野監督の中の結論とズレたまま進んでいることに気がつき始める。

誤配だ。

-STAGE.6.0 シン・エヴァ公開が秒読みとなる-

庵野監督が精神的にイッてしまったのは知っていたが、やはりファンとして追ってはいたので
やれシンゴジ風立ちぬなど色々やってるのを見ながらもやはり最後に待っているのはシンエヴァであった。
どうなっちゃうんだろう、あれはどうなんだろう、9年もあいたこの時間、それらを考えるには十分だったが、やはり最終的な結論は出ないままである。

くそったれのパチクズである為パチンコで常日頃から現行キャストの声を聞いていたり、エヴァ関連ゲームやなにかしらの機会で常にエヴァは追っていたし
別に公式から新しいものが出なくてもエヴァストアを使いまくっていたりしたので
「供給は常にあるコンテンツ」だと思っていた。が、
シンエヴァの情報公開、まずは冒頭映像公開の時に、ああ本当に作ってるんだという実感が増し、まだ俺の知らないエヴァが観れるとワクワクしていた。
だが…
いざ公開日が決定した時に出てきたキャッチフレーズ「さらば、全てのエヴァンゲリオン。」を見た時
明らかに今までの告知方法とは違うこのメタ的とも取れるキャッチコピーから、明確に最後を宣言されているような気がして
俺は本当に死刑宣告でも受けたかのような気分だった。エヴァが終わるのか。ついに。
もう気が気ではない。ただでさえこんなとんでもないご時世に死刑宣告…ひたすらに辛い
ご時世柄の延長はあれど、「その日」を待った。
そして3月8日。

-STAGE.7.0 エヴァンゲリオン新劇場版とは何だったのか?-

ここから先は、シンエヴァの重大なネタバレを含みます。
かつ若干押し付けがましいような表現がありますが、決して解釈を強要するものではなく、私の中の想いを綴ったものなので
そこはご理解ください。


結論から。
エヴァンゲリオン新劇場版は
「クリエイターが全力を出して面白くしたアニメーション作品」
これが全てだと思う。

そもそも、エヴァンゲリオンとはいったいどういう経緯で出来たのか。
庵野監督の人生の系譜をなぞりながら、自分が体験したこと、感情の吐口をアニメに落とし込んだ、そんな作品であったはずだ。
旧世紀版は少なくとも、監督の当時の心象を如実に反映し、エゴで作られたものだと制作インタビューにて公言されている。
なので当初から「設定は二の次」だったのかもしれない。
だが、ことアニメーションにおいて設定を無視できるはずもなく、さらにクリエイターとしては
そこをサボるなど言語道断である為、しっかりと裏打ちされたストーリーが用意されていたわけだ。
アニメーションの表現方法を優先するところが第一になっていて、そこに辻褄を合わせていった形なんじゃないだろうかと思う。

シンエヴァはそれがかなり顕著に出ており、ウルトラマンをはじめ、ガンダム、宇宙戦艦ヤマト、ナディア、トップ、式日、ラブ&ポップ、ゴジラ、果てはジブリへのオマージュまでてんこ盛りだった。(わかる範囲で書いてます)
これらは、自分の目には「庵野監督大好きなもの欲張りセット」みたいに見えたし、純粋に楽しそうだなと思った。
そこに、今まで出していなかった「話の中にメタヴァース的な要因を用意して、あらゆる解釈が全て正解になるようにした」のが今回、(それすらもウルトラマンエースのオマージュを使っていたが)これをする事によって、昔から言われ続けていた現実へのリンク感、そして物語とその辻褄をバッチシ合わせて
いかなる意見が出ても正解に直結するような世界になったんだ、と感じた。

今までは本来の正解みたいなものがおそらく一本あって、そこに対して「ホントはこうなんじゃないか、いやいや違うよこうだよ」みたいな論争が起きたりしていたが、グレンラガン後半よろしく「妄想が現実となる世界がこの作品内に登場する」とか言われた挙句
現実のエヴァに対する集合意識を解決する動きを映画内でやられたもんにゃ、もはや何が不正解かなんて議論を起こすだけ無駄になったのだ。
そして次の時代のクリエイター達へ、未来は託されていく--

ここに辿り着くための伏線やメタファー描写も劇中無数にあり、そこもやはりエヴァなのだと実感させられた。劇場の特典を手にした人なら分かるが伏線と初出用語あまりにも多すぎるため、省略。研究中。

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※この冊子は危険すぎる。

-STAGE.8.0 エヴァンゲリオンイマジナリー-

ではなせ、こんな半ばヤケクソじみたSF世界をいきなり作品内に登場させ、ゴルゴダオブジェクトであらゆる事象に決着をつけたかったのか、と言うところだが
かなり強めの言葉を使って書いてしまうが自分がおおよそエゴで作ったもの、そしてそのエゴにありったけ愛を詰めて、「わかる人には届いて欲しい」と思って作ったものが
別の多くの人間により誤配され、そして誤った解釈で広まり、後にその誤った解釈こそが作った本人に攻撃となって
「自分の作品が自分を殺しに来る」という感覚
本当に味わった人間にしかわからない。
どれだけ頑張って差別化をしても、作るもの全ておんなじジャンルの曲としか言われないみたいなね。

もしかしたら本当は「こんなん作っちゃってどうすんだよ」と言われたかったかもしれない。誰かに「アニメ疲れたでしょ、特撮やろうよ」って声をかけられたかったのかもしれない。
だが実際にあるのは、この本質を理解せずに表層だけをぺろりと舐めただけのような輩がテレビの前で発言する「エヴァ、サイコーッ!」という何の中身も感情もないようなものばかりで
挙げ句の果てに、他作品を置いて「エヴァっぽい」だの「庵野監督といえばエヴァ」だの、監督自身の持ち味がいつの間にかエヴァの持ち味にすり替わってしまっていた。

多分庵野監督は、エヴァの事がシンプルに嫌いだったんだと思う。いや…嫌いまで行かずとも、エヴァンゲリオンコンプレックスだったと思う。

自分が作ったものが自分の意図しない形で一人歩きし、回り回って自分を攻撃してくる。
自分が作ったものが巨大な意思に揉まれて、全然違うものとなってあたかも「それが本来の姿である」と大衆が決めつけているかのよう。
全然違うのに。

例えば、自分がポケモン大好きなファンの絵描きだったとして
自分はピカチュウとフシギダネを合体させた新たなるポケモンを作りして、メチャ可愛いキャラができたぞ!って言いたかったのに
バズってRTを繰り返すうちに「これは実はピカチュウとフシギダネが科学実験により生み出された失敗作を、ポケモン公式の関係者がリークしたものであり、非常に凶暴な性格をしている。人間に懐いたりしない」みたいなことを勝手に設定されてしまったとしよう。
後者の意見が要因でバズってしまい、そのバズりRTが巡り巡って作者本人に届いた時、「これ私が作りました!可愛いでしょう?」って言ってるのに
「は?可愛いとかじゃねーし これは化学実験失敗作を設定が残酷すぎるという理由で公式が隠してきた秘蔵絵だし」とか言われたら、その作者としてどんな気分になります?
ちげーよアホって言いたくなるでしょう。
しかも、嘘の噂を広めた人同士でどっちが正しいか喧嘩して、作者の持つ正解とは全く違う明後日の方向の論争ばかり続けて、作者側には耳も貸そうとしない。
じゃあもうピカチュウとフシギダネはやめよ…って事で、デジモンを合体させても
そのあと言われるのは「これはピカチュウフシギダネキメラだ!あの人が作ったんだからそうに違いない!」と、全然違うのに言われて…
多分庵野さんはこれを無限に繰り返して疲弊しちゃったんだろうなと。
新劇場版は、それに根拠をつけてwin-winにするためのケジメみたいな作品だった。

劇中に登場した「イマジナリー」という単語は文字通り、広まったイメージから勝手に肥大化し人々に定着したエヴァンゲリオンイマジナリーであり、そして監督の中にあるシンのエヴァンゲリオンを、スタッフみんなが作ったエヴァンゲリオンを、全て設定の名のもとに消したのである。
今まで救われていなかったというか、問題が解決していなかったキャラクターにケジメをつけながら
かなり丁寧に解説し、解放していくのは
やはり他でもない碇シンジ=大人になったこの作品自身、そして巨大な存在になってしまったエヴァンゲリオンイマジナリー=人々が勝手に作り上げたエヴァンゲリオン作品像すらも、正解とする世界。
もはや間違いなどない。全ては一つの福音となったのだ。

-STAGE.9.0 エヴァの目的-

エヴァは衒学的だという監督の発言があるがまさにその通りで、先にも記述した通り世界観設定などは口実を作るために必要だっただけで、エヴァという作品で表したかったのは
アニメーションの技術力、オリジナリティ、リスペクトを含む同人へのオマージュ、そして何より「アニメーションの面白さを知って欲しい」という欲求が真のところだと思う。
それはデザインの面白さ、画面・構図の面白さ、手書きの絵や動きの面白さ、3DCGの画面や動きの面白さ、色彩の面白さ、美術背景の面白さ、撮影の面白さ、カット割の面白さ、カット変わりの面白さ、編集の面白さ、声の芝居の面白さ、音楽や効果音の面白さ、音響配置やバランスの面白さ、これらを統合する演出の面白さ。

恐らく監督も世間の意見という巨大な波に呑まれながら、自分を理解して欲しいエゴと戦ってたんだろうなと思うし解決に相当悩んだと思うが、今回の決着の付け方は、話の内容に矛盾を生まずしてエヴァ視聴者に明確な根拠のある終わり方を示し、それでいながら監督の中の踏ん切りをつけるという2つの目的を見事に達成していた。
エヴァという作品は、作り手の人生記だった。
得体の知れない何かと戦いながら、前進し続ける意思を映し出した自伝だ。

それでも、シンエヴァを見た人の中には旧劇場版の時のように「あ〜全然矛盾だらけじゃん」とか「オナニー作品じゃねえか」とか言う人も絶対にいるだろう。
だが、それでいいのだ。
ゴルゴダオブジェクトは、どんな解釈も現実のものとし、そしてエヴァンゲリオンイマジナリーは消滅したのだから。
もしかしたら第三者が作ったグッズとか買ってほしくないかもしれないし、こんな長ったらしい文章とか書かないで欲しいかもしれない。
「こんなのにムキになっちゃってどうすんの」って思ってるかもしれないけど、それでも俺はこれが真に面白いと感じている。
これだけは「本当だと思うから。」

-STAGE.10.0+1.0 エヴァが私にもたらしたもの-

自分の創作は、もうこれでもかってくらいに根幹にエヴァがあり、影響を受けまくっている。
弊サークルAcuticNotesで出したXephiratoneが一番露骨に、MAZEDOLLもかなり色濃く影響が出ている。
こう言ったところには結局、「自分の内面を知ってもらいたい」「自分に興味を持って欲しい」という思いがあり、その出し方は
いつもエヴァを模倣している。根底にある想いを知って欲しいから。理解されたいから。

さらに創作においてエヴァからヒントを得て気がついたのは、「人がより深くまでその作品の虜になるための一番強い感情は、喜びや悲しみでなく疑問である」と思うようになった。自分の創作の根っこにはいつもこの考えがある。
それもこれもこの作品のせいだ。何なんだエヴァの持つ力は。

おわりに

単純な言葉で言い表せない感情を、作品は一気に伝えてくれる。
今から自分がこんな巨大なコンテンツを作れる気はしないが、それでも同じく何かを作るものとして
生きた証を誰かの中に残したいと思う。
エヴァ紛れもなく、消えないものを自分の心に残した。
ずっと憧れ続ける神話になった。
エヴァを好きになってよかった。
これからもずっと好きだ。
人生で一番好きなアニメ作品だ。
たまんねえぜ。

あ〜〜〜〜〜スッキリしたぜ。
さあもう一回見に行くぞ。
たくさんお金を払うぞ!!!!

余談:この終局を見た人、貞エヴァとは違う形でもう一度エヴァ世界の終わりの形を新しく味わいたい人は、山下いくと氏の「エヴァンゲリオンANIMA」を読むことをお勧めする。
正直、エヴァ世界の決着としてはコッチのほうがビックリしたかも

終劇

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