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「模範的社会人」になるための自己啓発読書会 第三回西野亮廣『革命のファンファーレ』

1.導入

*⚠注意⚠この記事は『進撃の巨人』と『えんとつ町のプペル』のネタバレを含みます。
【キュ:キュアロランバルト お:織沢実 ハ:ハイザワ ブ:ブロードウェイ・ブギウギ】

キュ:ではお酒を持っている方は乾杯!
一同:乾杯
キュ:軽く最初に感想いってきますか。僕読んで思っていたより面白くて、少なくとも絵本産業というシステムの中でそれをハックするってものは面白かったし、そのための戦術書としては分析も明瞭だった。僕は最初西野のことをプペルめっちゃこすっている人だと思っていて、クリエイティビティもないクソだと思っていたんですよけど、なぜ西野がそこまでプペルにこだわってこすり続けるのかがわかってよかった。あとは、まず前提とされている世界観が凄く加速主義的ですよね。創作以外のものが技術に置き換えられていくというものが加速主義的な世界観。でも、それってどうなのかとは思った。あと、西野は「お金の奴隷解放宣言」といいつつ、自己の選択に金銭が介入しすぎ。他には、オンラインサロンにハマる人間っていうのは、「なにものかにはなりたいけれど具体的に何かになりたいわけではない人間」だと思うので、それに西野が「芸人」という名前をつけるというのが詐欺師のレトリックとしては面白かった。そういう詐欺師のレトリックの種明かし本としては面白かった。
お:前回の『なぜ今仏教なのか』はエッセイとして面白かったが、この本はエッセイとしては面白いと思わなかった。ところどころ寒いし。加速主義みたいなものが、よくわからないけれど、こういうものを加速主義的なものというのかと知れて面白かった。
ハ:キュアさんも言っていた、絵本の話が面白かったです。絵本ナビという、本の試し読みがネットでできるサイトを思い出しました。絵本は内容を確認してから買われる点や、本屋で選ぶのは手間がかかりすぎるという点に対応したサービスだと思います。なので発想的には正しいと思いました。一番思ったのは、西野のいう信用というのは数字の確保が十分に確保された状態のことだということです。僕は林士平というジャンプの編集者をフォローしているのですが、その人が自分の担当している人の読み切りを宣伝するときに「三日間で63万PVぐらいいきました」みたいな広報をしていました。つまり、数で信頼を与えているということです。で、このような確実な数の確保のためにクラウドファンディングとかオンラインサロンを利用しよう、と西野は述べているわけですね。
この中には、小説を書いている人もいると思います。西野が言っているのは、内容ではなく数字(フォロワー)を確保したことで作品が売れるということだと思います。「数のゲームで勝たなければ敗者だ」というようなもので、他にうまいやりかたはないのかなと思いました。これは西野がキングコングという芸人として知名度があるからできることです。もちろん西野がものすごく工夫しているという点のも大きいとは思いますが、数字ベースのゲームに集中しすぎるとドツボにはまるというか、苦しくなると感じました。
ブ:みなさんも言っていたようにこの本は絵本産業、一個の絵本とそれを取り巻く産業のメディアミックスモデルとしては優秀だと思います。でもそれだけ。ここから引き出せるのは、西野が売り込みのために分析した日本の経済の仕組み、それもあくまで西野視点のものだけだと思いました。僕はもっと西野の思想や概略が知りたかったです。なので、この本はプペルに密着しすぎていると思いました。まあ彼はプペルありきなのでそれはそうなのですけど。あと読んでて気づいたんですけど、この読書会がプペルの広告になってしまう。正直記事にしないほうがいいんじゃないかってぐらい最悪。僕らが金にされてしまう。広告されてしまう。だからこそ今回は飲酒で対抗した。

2.セカンドクリエイターかハッキングか



キュ:革命とかいうわりに、西野自体が確実に勝てる勝負をやっているだけでかなり「保守的」。この本で種明かしをした理由って結局後続がついてこないからなんですよね。西野と同じことをして勝てる人間はもう西野しかいないわけで、だからこそこの本があるし、ここで展開されている成功法はもうだれの成功にもつながらない。革命的ではないですよね。
ブ:この本自体が一個の商売で、サロンの一環なんですよ。すごく狡いと思ったのは「セカンドクリエイターを作れ」と言っていて、この本を読むことでセカンドクリエイターになってねということで、それはつまり自分のやり方でみんなも成功してね、ではなくて自分の後ろについてこいよというスタンスで、自分の時間を増やすためのセカンドクリエイターを作るというだけなんですよね。それが凄くやらしいなと思いました。
お:この本を読んでどういう風に役立てられるかって考えていて、こういう本を読んでいる人たちはそれを読んで何かを得て繋げていこうとしている人たちなんじゃないかと勝手に思っているんですけど、でもこれを読んで何か学んで得るものがあるのかなと考えるとそんなにない。出てくるビジネスモデルは西野だからできたことでしかないし、これを自分のものにしていくにはこの本を書くぐらいの力がないといけない。
キュ:プペルや西野について何かを語ること自体を西野が開いていて、結局西野に対する言及や批判が全てについて西野は「想定している」というスタンスを取ることである種の無敵状態になっている。さっきセカンドクリエイターの話で思い出したんですけど、最近フィールズグッドマンを見た。それは、カエルのペペっていう漫画のキャラクターがアメリカで差別主義者のシンボルとして使われるようになったことのドキュメンタリーなんですけど、それは作者の手元を離れてネットミームになってアイコン化されるというプロセスが描かれていた。その映画自体面白くて、単純に取材するだけではなくてネットミームの具現化としてのトランプ像みたいなものを示していて、トランプが誕生するまでの歴史観を一つ提示している。で、めちゃくちゃアツかったのは、その作者が自分のキャラクターを取り戻すために訴訟を何回も起こすんですけど、結局ネットの世界はいたちごっこなので解決しないんですよね。だからアメリカにおいてはペペは差別主義のシンボルでしかないんですけど、でも作者がそれについて立ち上がったことで香港でカエルのペペが民主主義・平和の象徴として使われるようになったという話が最後に出てくる。つまり一度ハックされたイメージを奪い返している。だから西野の思想というか西野の提示しているゲームの中で、我々にできることがあるとしたらその表象のハック、または奪い返すことだけなのかなと思いました。
お:プペルを作者から取り戻す。
キュ:そうですね。作者性に隷属化されない解放されたプペルがありうるはず。
ハ:ツイッター上でプペル二次創作論争があったと思います。良い作品には二次創作がついてくるのにピクシブにはプペルの二次創作がそんなにない、だからプペルは二次創作が少ないゆえに良い作品とはいえないんじゃないかという主張です。反論としては、名作でも必ずしも二次創作されているわけではないということがあげられます。これは、「セカンドクリエイター」と関係があるように感じました。セカンドクリエイターにはキュアさんの言っていたようなハック性というものはないわけですよね。むしろ西野自体がそれを期待していなくて、西野は自分の時間を増やすために分身を作っている。要はセカンドクリエイターとはプペルのコピーであって、コピーを増やしていくことが重要だという発想だということです。オンラインサロンの界隈を見ていて、なんで二次創作をやらないのかと思います。誰かしらプペルでエロ同人とかを作る人がいてもおかしくないですよね。オンラインサロンの人の多さにしては、二次創作のようなハッキングの発想があまりないのは、なんでなんだろうと思いました。
ブ:そもそも二次創作をする層はオタクじゃないですか。西野が狙ってる層はオタクではない。そういう意味でこの絵本産業で狙われる人たち、需要層だとされている層はプペル批判層と被っていない。それが強みとして現れている。だからこそ西野の狙い通りに流行っている。
キュ:全然関係ないんですけど、『革命のファンファーレ』の中でプペルをパロディー化したAVが出るという話があったじゃないですか。AVのパロディー性はめちゃくちゃすごいと思っていて、『鬼滅の刃』とか「家ついていっていいですか」とか何かオリジナルがあってこそ卑俗なパロディーがありうる。このパロディー性はもっとあるべきで、それが最後に残っているのがAV。AVのパロディーの伝統についてはかなり興味深い。もともとパロディーというのもアングラであって俗なもので、バフチンでいうところの笑いとか道化とかの問題と被っているわけで、そういう意味で笑いやパロディーの根源とAVの根源は被っている。
ブ:バタイユがパロディーに注目している。もともとある文脈から外して換骨奪胎する。有用性の連鎖みたいなものから外して使うというものがバタイユのやりたいことなので、とても注目していた。今「パロディー AV」で検索していたんですけどめちゃめちゃ面白いです。すごいですね。
キュ:AVの力っていうものはありますよね。それこそ、佐川恭一が小説でAVが唯一規制に立ち向かっているからAV以外の映像作品はクソだということを書いていたけど、それは一理ある。AVは根源を目差している。あと佐川恭一の作品性の一つにやはりパロディーというものがあると思うのでそういう意味でもAVと隣接するのかも。
ブ:「パロディー AV」面白すぎるので皆さんも時間があったら調べたほうがいいですよ。いや、ひどいな。それにパロディにするの早いな。
キュ:『鬼滅の刃』とかめっちゃ早かったですよね。映画出てすぐに『無限発射編』が出たので。伊之助ではなく股之助が出てくるんですけど。
ブ:ロゴもちょうどいいですね。AVってまじめなコンテンツからしたら全然関係ない文脈にあるから元のものとの落差が作りやすい。うまいことパロディーするって難しいですよね。その分AVは簡単に出来る。

3.資本主義の内部にあるオルタナティブについて


ハ:西野のオンラインサロンに参加している人って新しいことをやりたいのでしょうか? それとも西野の夢に乗りたいのでしょうか。
キュ:どうなんですかね。なんか知り合いがオンラインサロンではないんですけど情報商材とか売ったり講演会開いたりして、そこでお金払って勉強した人がまた勉強会を開くという団体に勧誘されて、歓迎会とかにいって内部調査していて。その人に聞いた話だと、そういう団体ってちゃんとやれば稼げるらしい。宗教と同じで、そこでのし上がれば儲かる。一つゲームというか枠組みが与えられるわけで、その中で勝てる人間が生まれる。まあ結局、資本主義の元にあるゲームなんですけど、別枠としてオルタナティブな資本主義があってそのようなものを設定している。ねずみ講とかも資本主義に対してオルタナティブなゲーム。それで肥やしになる人間と勝てる人間がいる。西野のオンラインサロンがどうなのかわからないんですけど。西野の30万クラファンとか買って、真面目にやる人間はある程度利益を得れるわけで…うぉおお(ビールをキーボードに溢す)やばいやばいやばい。
ブ:いいですね、酒によって西野のプペルが中断されるっていう。飲酒は連続性のあるものを断ち切る力があるわけで、なんでもかんでも資本に回収されていく中で飲酒が一つの断絶として作用する。今は完全にそれが起こっています。
キュ:完全にパソコンが水没しました。
お:キーボードにお茶溢すVチューバー見てきたけど、生で見るのは初めてだ。
ブ:今のキュアロさんの話を聞いていて思ったのは、資本主義ゲームのフィールドが変わってきたのかなということです。ちょっと前まではプレイヤーとしてどこまで成り上がれるかだったのが、最近は資本主義を用いたゲームクリエイターとしてどこまでやれるかというのが主になってきていて、そっちの方が資本主義をうまく使えるという主張が自己啓発本やビジネス書で推されていますよね。プペルの「〜の権利」とかを買っている人たちはいまだプレイヤー止まりで、本当に成功したいならセカンドクリエイターではなくファーストクリエイターになるべき。それこそピーター・ティールの『ZERO to ONE』で言っていた小さな枠から初めてニッチ需要を満たしていくというのがいいのかと思います。
ハ:西野が作っているものに似た枠組みで別のゲームを作るということですね。
キュ:ゲーム提示という面でそれこそ簡単なのは宗教を作ることですよね。架神恭介『完全教祖マニュアル』でも書いてありましたけど、宗教はお金をむしり取るわけですけど、宗教のゲームの中ではプレイヤーにとってお金って別に重要ではないんですよね。むしろ寄進することで幸せになるという価値観を提示している。そこで教祖がお金を稼ぐということと信者が幸せになるということの翻訳が行われている。だから一番簡単に外側にゲームを作るのは宗教作りだと思う。それこそマルクス・ガブリエルが「資本主義は実験を許す」といっていて、つまり資本主義の中で小さな共同体を作って共産主義を実験することは可能なのであって、それこそ新興宗教が許されているのは資本主義があるからだし。結局共産主義の失敗は内側に外部的な実験を許さないということですよね。小さなアナキズム、小さな共産主義というのは資本主義の中で許容されうるので、そこが資本主義/共産主義という二項対立の議論において二つは存在する次元やスケールが異なる。そのため二つはそもそも二項対立にはならない。ビールをようやく吹き終わりました。僕の机に置いてあったアガンベンの『ホモサケル』が急に倒れてこぼれました。
ブ:今資本主義と共産主義が二項対立ではないって言ってましたけど、サルトルか誰かが「共産主義というのは我々の時代の乗り越え不可能な地平だ」と言っていて、乗り越え不可能だったのは資本主義の中でしかできてなかったからですよね。フランス現代思想の基礎をもって次の思想として資本主義の外部を求めるという思想が現れてくるのは必然的な帰結だなと思いました。資本主義の内側の極北、共産主義が乗り越え不可能なら外にいこうというか。全く別なものを探す。これは難しいですけど当然のような気がします。
話が変わるんですけど『革命のファンファーレ』の序章で「これからの時代には好きなことを仕事にする」みたいなことを書いていたじゃないですか。これってまさに資本主義の売春性ですよね。嫌じゃないですか、好きなことが仕事になったら。僕のすごく大事なところが売り渡される。金っていう一番安っぽいもの、何にでも交換できてしまうものに交換されてしまう。これが『革命のファンファーレ』の序章で書かれていて、ぴったり資本主義に寄り添っているんだなと思いました。

4.オタクのハッキング能力(?)


お:新機軸として無料公開が言われているが、これって1995年ぐらいに岡田斗司夫がやっている。『僕たちの洗脳社会』というものを朝日新聞出版から出したんですけど、出版のタイミングでネットで全文公開している。遅れること20年、ようやく西野も追いついたよねという。
ブ:岡田斗司夫のほうが早いんですね。
お:二次創作されていないという批判も岡田斗司夫だし。結構岡田斗司夫の動画を見てる時期があったので、そこで話されていることに近いことが下手な言い方で言われている。岡田斗司夫のほうが本書くのはうまいと思いながら読んでいました。
ブ:岡田斗司夫はオタク目線。いまだに「オタクすごい」みたいな思想を持っている人なので、そういう意味ではオタクじゃないところでそういうことをした西野はオタク産業を拡大した意味でありがとうというところですね。
ハ:西野は岡田斗司夫もといオタクの発想を受け継いでいる。西野のファンはオタクの思想を受け継ぐべきなのかもしれませんね。
キュ:話ちょっとズレますけどウマ娘ってハッキングですよね。
ブ:というと?
キュ:オタクによるハッキングじゃないですか。だって、馬に対して別の表象が置き換わっているわけで、史実とは別の要素やエピソードが追加されていたりする。そのようなイメージが一人歩きしている。ウマ娘以後からは今までの馬がキャラクターと結び付けられて考えられるわけで、オタク的な「関係性」とかの文脈の元に置かれてしまう。
お:オタクのハッキング力はすごい。二次創作もキャラクターはその作品のキャラクターなんだけれど、動き方とか喋ってる内容がすごいオタク的になる。オタクのハッキング力は二次創作にも溢れ出ている。
ハ:オタクが偉いってわけではないですが、ハッキングはシステムを別のゲームに変える力なわけですね。あるものを別のやり方でハッキングすることがオタクのやり方だとしたら、セカンドクリエイターになっている人はどこかでそういう意識を持たないと永遠に西野にお金を払い続けることになる。というかそもそも西野ってそんなに面白いか? っていう疑問があるんですよね。発想的には人を集める力があることは確かです。でも、中身はそこまで面白くないのでは……と思ってしまいます。ずっとついていくほど、面白いものなのかって感じがします。
ブ:面白くないけど夢を売る力はある。やればできるよってずっと言っている。手札公開してるんだから真似すればできるよ。君も主役になれるよ。あなたにも聞こえるでしょう、革命のファンファーレが。と言う感じ。でもこれをやっていても西野と同じようにはなれない、というのは西野の自己分析力の足りなさなのか、わざとなのか。
ハ:わざと。西野は頭いいからわかっていると思います。
ブ:だとしたら本当に悪質ですね。

5.壁の中の西野亮廣


キュ:西野が今のスタンスになったのって起源がわからないじゃないですか。芸人で売れたあとに今のスタンスになるまでが曖昧でよくわからない。ダウンタウンとかのように芸人として売れたというよりは、芸人の主流から外れて今の立ち位置にいるわけで。だからこそ芸人という言葉を再定義化していて、結局みんなは「よくわからないところから出てきた西野」という存在に惹かれているのではないかと思う。だからこそ自分でもできるという気にさせる。
ハ:西野はどこかのインタビューで言ってたんですけど、芸人としてゼロ年代に売れてはねとび、おはスタのレギュラーになったけど、上にはダウンタウンとか、自分の先を行く人間が多すぎて限界を迎え、M−1も優勝ができなかった。そこで限界を感じて、他にやりたいこともあったから今のスタンスになった……という流れだったと思います。西野自身は自信が置かれたゲームを変えたんですよね。芸人のゲームを諦めて別のゲームを作った。良かれ悪かれ、成功したわけです。
ブ:『ZOREtoONE』で言ってたニッチ需要に応えるってことですよね。
ハ:西野はすごいですが、プペルはほんとうに夢なのか、どうか。
お:作品として優れているかと言ったらそうでもない。西野が芸人の肩書きをやめて「パイン飴を配る人」という肩書きにしたことに対して松本人志が「おもしろくないけどね」とコメントしたのはすごい的を得ていて、批評として作品として優れたツッコミだと思う。それに対して西野が「面白いと思ってやっていない」と応えるのはある意味成功なのかもしれないけれど、お笑いという作品としては落第ですよね。それがプペルという作品に対しても言える。
ブ:作品ではなくて商品を作っていますよね。作品としていいものを作ろうというよりは、売れてメディアミックスしてみんなが読み継いでくれるものを作ろうとしていますよね。そういう意味ではクリエイターじゃなくて、なんというか売人?
お:職人とか?
ブ:まあプペルの映画見てないので何も言えないですが。ハイザワさんは観たとのことですがどうでしたか。
ハ:話すと長くなりますけどいいですかね。結論から言うと、映像はすごい綺麗で、演出とかもすごかった。ストーリーもそれほど破綻があるわけじゃなかったんですけど、死ぬほど熱狂する感じではないなと思いました。あと思ったのは、めっちゃ『進撃の巨人』だなと思いました。これ、話していいですか? ネタバレになりますので……。
お:ネタバレ気にしないので大丈夫です
キュ:ここに「注意:この記事は『進撃の巨人』と『えんとつ町のプペル』のネタバレを含みます。」と書いときましょう。
ハ:いいですか? では話しますね。『進撃の巨人』は、巨人という脅威によって壁の中に閉ざされた世界があって、人類が滅亡の危機に瀕している。っていうのがはじめの世界観です。そのあと巨人を攻略して世界の秘密を知るんですけど、実は壁の中の人間は情報統制されていて「壁の中にしか人類はいない。壁の外には巨人しかいない」と教育されてきた。でも実は外にも世界があって、巨人は外の国から派遣されていた同じ人間だったんです。つまり、壁の中だけだと思っていた世界の外にも、同じような世界があったんです。プペルも同じなんですね。えんとつ町という廃工場地帯みたいな世界で人々は生きている。空は煙突の煙に覆われて閉ざされていて、プペル世界の人間はえんとつ町の世界以外の世界を知らないんです。でも実はえんとつ町には外があって、空の向こうには遠い国があった。実はえんとつ町とは、外の世界で迫害されていた人が作り出した閉鎖社会だった。そして、その世界を守るために思想統制が行われていた。つまり、『進撃の巨人』とプペルは似た物語構造を持っていたんですよ。
キュ:それって西野じゃないですか。つまり芸人世界から出てオンラインサロンという一つの国を作った人間というのが西野なわけで。そう考えるとプペルって自己言及、自己反省として捉えられるのかもしれないですね。
ブ:確かに西野はプペルの作中主人公のルビッチの格好してますよね。
キュ:オルタナティブな世界を作ることとプペルってのは通じているのかも。そういう意味ではプペルは西野にとってラディカルなものなのかもしれないですね。それが作品として良いかと言う話は別なんですけどね。
お:絵本を読んだ子供たちが10年後それを覚えているのかっていうのは重要なんですよね。
キュ:西野はディズニーに勝つということを目標に掲げていて、「ディズニーはジャングル作品の時弱いから」という理由で今回『ラーヤと龍の王国』の公開に合わせて『えんとつ町のプペル』を公開したんですよね。それこそが作品自体の価値を前提としていないということの証明ですよね。つまり結局数字なんですよね。クリエイターではないですよね。というか、
ブ:アーティストではないですよね。
キュ:そうですね。
ハ:数字が問題だということですよね。
キュ:好きな人いたら申し訳ないですけど、村上隆っぽいですよね。やってるゲームは似てますよね。
ブ:そう言う意味ではプペルはポップアート的ではあるかもですね。
キュ:資本主義に回収された後の芸術としては価値があるかもですね。
ブ:一例として出せそうですね。
キュ:それこそ村上隆が、芸術と美術とアートとARTを分けていて、ARTってのはアメリカ的なオークション主体のゲームであって、自分はそのゲームで成功しているんだよと本の中で書いていた。だから西野がやっていることは同じかもしれないですね。
ハ:映画を見て思ったのは、西野はディズニーより前に『進撃の巨人』の作者諌山創先生を倒すべきだということです。
ブ:そんなに『進撃の巨人』面白いんですか?
ハ:めちゃめちゃ面白いです。最近読んでハマりました。まだ最終巻は読んでなくて単行本待ちなんですけど、めちゃめちゃ面白いです。プペルを見てる人は『進撃の巨人』を見たほうがいい。僕はプペルの話はすぐ忘れてしまうかもしれないのですが、『進撃の巨人』のことはずっと忘れないと思います。で、映画なんですが、副音声を聞きながら見たんですね。映画を見ながらスマホで西野のオーディオコメンタリーを聴けるサービスがあったんです。それで映画を見ながら西野がずっと喋ってるのを聞いていたんですけど、そこで西野が「第二部の構想がある」と言っていたんです。「壁の外にプペルが出る」らしいんですよね。要はえんとつ街から外の世界を旅するんですよね。それ『進撃の巨人』じゃんという。『進撃の巨人』は壁の外に出てからが個人的にすごい面白いんですよね。まあ壁の中で巨人と戦うのも面白いんですけど、壁の外に出てからは救済とか罪、復讐の連鎖といった主題を正面から引き受けて作品が造られていて、感情的に迫る部分がたくさんあってすごく面白いんですよね。特にガビちゃん関連のエピソードが好きです。
ブ:今の話を聞いていて思い出した好きな漫画があって、『クレイモア』っていうジャンプですごい前にやってた作品なんですけど。それもクレイモアっていう剣を持った女の子たちが魔獣と戦う話で、その戦っている空間、世界だと思っていた島はでかい大陸の端っこにある島で、本土で戦争していたやつらの実験場でしかなかった。これは完全にオチなんですけど。という話があって。
ハ:近いですね。
ブ:クレイモアめちゃめちゃ好きで。クレイモアがオススメですって話です。
ハ:何巻ぐらいあるんですか?
ブ:27巻ぐらいですね。話自体も面白いんですけど、厨二要素が凄くて。強いクレイモアには二つ名があるんですよ。カサンドラって人だったら戦い方が地を這うようだから「塵喰いのカサンドラ」とか。「愛憎のロクサーヌ」とか。そして作中最強の戦士の二つ名は「微笑」なんですよ。僕は中学生ぐらいから何回も読み直したので僕の厨二病の大事なところはすべてクレイモアから来てます。本当におすすめです。
キュ:そういう系でいくと僕の好きな『トリコ』とかも似てますよね。『トリコ』では、人間の住める世界が世界にほんの一部しかなくて、第一部では人間界で一番美味しいものを求めるんですけど、結局外にもっと美味しいものがあると考えて未知の世界にいって外の世界に封印された伝説の美食家のフルコースを探すっていう。
お:アカシアのフルコースですね。

6.外部の発見

キュ:まあでもあれの場合はどちらかというとコロンブスですよね。コロンブスの「新大陸発見」っていうのが「発見」と言われているのはある程度意味のあることで。あと思ったのは巨人もプペルもそうなんですけど、もっと言ってしまえば「転生モノ」とかもそうなんですけど、現実に対して外部の可能性を求めるっていう考えですよね。資本主義リアリズムを認めた上で、でも外部を求めるっていう。結局「なろう系」が流行っているっていうのも同じことですよね。
ブ:地図の書き換えっていうのが人間的にすごくワクワクするというか。「まだ自分の知らない土地があるんだ」っていう意識が現代ではないじゃないすか。それこそアメリカ西部が開拓された時に「フロンティアがなくなった」とか、東南アジアとかミャンマーが最後のフロンティアって言われているように人間はフロンティアが欲しいんですよね。でもそれがなくて、だからこそ漫画とか小説で仮想空間とか異世界がテーマにされるっていうのはすごくわかりますよね。
キュ:それこそ現代社会のフロンティアってスペースXにあるように、宇宙ですよね。宇宙が未開の象徴に使われているし、火星移住や生物発見というのは外を探す一環ですよね。
ブ:でもどうなんですかね。外を探しに出て、外って見つかるものなんですかね。もちろん物質的には宇宙だったりアメリカ大陸だったりがあるでしょうけど、今外を見つけようとして物理的には簡単に見つからないと思うんですよ。これが見つかるのって思想上のものですよね。概念上というか。だとしたらもっと内を探索すべきですよね。まあデリダではないですけど、内部に下がっていくことで沈殿しているものを探して、それからどうにか外につながらないかなという。それが堅実というか、できることかなと。あまり外部外部っていうのは荒唐無稽かなという。
ハ:人間の内部のフロンティアというと脳があげられるかなと思いますが、具体的にはどういったものを考えていますか?
ブ:僕は脳より、歴史とかにコミットしていくというか。今まで考えられてきたものを辿って、今まで考えられてこなかったものを見つけ出す。これが脱構築なのかはわからないですけど。
キュ:あえて、今その逆を言うなら、ブルーノ・ラトゥールの議論があると思うんですよね。前に『ブルーノ・ラトゥールの取説』を読んだんですよ。ラトゥールが言っていることって、例えば脳もそうですけどフロンティアがあってそこを開拓していくことって、宇宙の場合は人が住める場所が物理的・科学的にはあり得るし、そもそも場所がある。で、そこにいくってことは、物理的にそこにあるものに実際にいくことで知が再構築されるというか。生物学では何か病原菌や病気を直すものがあって、それが何かっていうものが検出された状態と、原因がわからずにただ効果だけがある状態っていうのは全然違くて、たとえ元からあったものを検出するだけだとしても、「発見」って言うべきだという話なんですよね。つまり、既存のものを言説の中に組み込み、再構築を行うということはそれ自体が「発見」というべきだし、科学っていうものは結局そういうものでしかないという話なんです。生物学や脳科学が思っている以上に、元から想定したものを見つけるというだけではなく、人間が文化的に考えているものはそのたびに再構築されているという。まあデリダ的には内にいくことが脱構築につながるわけですけど、外に行って実際にそれを見出すってことは再構築するというのもありなのかなと。まあラトゥールの言い方をするなら、再構築することも関係性が変わっているだけなんですよね。ラトゥールは「ノンモダニズム」ということを言っていて、我々は今だに近代化していないということを主張しているわけです。それは、近代が自然と人間を分かつことで生まれたとしてもその関係性は変わらなくて、「純化」と「翻訳」のプロセスを無限に続けているだけであって、根本的には変わらないということを言っているんですよね。だから、宇宙とか脳とかのフロンティアへ向かうことも意味はなくないのかと。既に物理的に存在している未知なる外部へ向かうというか。
お:先ほど内に向かうという話があったと思うんですけど。西野がお笑いというところから出て行ってプペルというところにたどり着いたわけなんですけど、もし西野がお笑いという中で内に行くという選択を取っていた場合、どういう方向にいったのかなとずっと考えていたんですけど、今までの蓄積という方向で行くのならそれをやっていたのが立川談志とかそういう人たちなのかなと。
ハ:西野はゲームから降りた感じがありますよね。マヂカルラブリーはM−1でボコボコに負けたけど、最終的には優勝できたわけです。
キュ:あれが一つ革命ですよね。マジカルラブリーは漫才の文法は一切変えずに、でもそれを認めさせるほどの作品をつくったわけで。既存の制度で認められなかったものを、ハックしたということで。そういう意味では、「去年のM-1はレベル低い」っていうやつは漫才とは何かわかってないと思うんですよね。てか、僕は漫才ってめちゃヒップホップだと思うんですよね。蓄積からの差異化するものだし、対話するものだし、ヒップホップなんですよ。なんか、マジカルラブリーが優勝した一ヶ月後ぐらいに博多華丸が漫才で酔っ払ったオヤジみたいなネタやってたんですけど、そこでマジカルラブリーがネタの中の中央線で足を折り曲げて寝転がるポーズと同じポーズをしていて、大吉さんが「そういうことやってると漫才じゃないっていわれちゃいますよ」ってツッコミを入れるんですよね。こういうのって結構ヒップホップだなって。漫才ってめっちゃヒップホップだし、ひたすら差異化されていくプロセスだと思うので。
まあだから西野はそういうゲームから降りて、『ZERO TO ONE 』的にはゼロを求めたんでしょうね。それが本当にゼロなのかはともかく。それも結局もともとはホリエモンとかが作ってたゲームじゃないですか。この前、クローズアップ現代の「オンラインサロン」特集を見てたんですけど、そこで紹介されていたのが、ホリエモンのオンラインサロンに触発されて高校をやめた女の子みたいな。その子は、レールに乗り続けることに不信感があって、オンラインサロンに外部を見たんですよね。だから、高校をやめてオンラインサロンの世界に浸ったわけですけど、これって完全にプペルですよね。

7.ストロングゼロ


お:ブギウギさんのパイプいいですね
ブ:でもこれ口めちゃ乾くし煙くて、やはり紙巻のほうがいいです。
(トイレ&酒タバコ取りに行く休憩)
キュ:「これはパイプではない」ですね
ブ:そうですね。「これはパイプではない」です。キュアロさんは普段なに吸うんですか。
キュ:僕はハイライトですね。前はアメスピだったんですけど、増税で高くなりすぎてしまって。ハイライトは今でも490円なので。
ブ:ツイッター見てたらすごい吸いますもんね。僕はカッコつけてガワにこだわるタイプなのでブラックデビルとか、高くてもあんまり吸わないので気にしないですね。
キュ:なるほど、僕は質より量派なので。今飲んでいるお酒もトップバリューの500mlで120円のバーリアルっていうビールです。バカやすくて、の割にはうまいんですよ。あと最近はストゼロじゃなくて、セブンイレブンでストゼロより50円安いクリアクーラーストロングっていうのを飲んでます。これがストゼロと違って人工甘味料入ってなくて、体にいいんじゃないかと思って。
お:健康のために?
キュ:そうですね、健康のために飲んでます。もうクリアクーラーストロングも長いんで「CCS」って略しててLSD感覚で飲んでます。でもCCSがあまり定着しなくて悲しいです。
ハ:ツイッターでもうちょっと発信すれば広まるかもですね
キュ:ストロングゼロは…あ。でも最近のストロングゼロは商品開発部にめちゃめちゃ味に厳しい人が入ったので(おそらく)、最近の商品はクソ美味しいですね。これ結構重要で前までのストゼロってエタノールで、酔うためのものだったんですよね。
ハ:前飲んで味がやばかったので一生飲まないと誓いました。
キュ:でも最近は味も美味しいんですよ。結局ストゼロの敵が増えすぎたんですよね。酎ハイって結局ほろよいか9%かの二択だと思ってて、ほろよいに関しては覇権を握ったんですよね。でも9パーセントは覇権争いが続いてて、ストゼロもこのままでは勝てないと思ったんでしょうね。
ブ:僕、スト缶の味が嫌いで、氷結もなんか頭が痛くなるので、いつもフォーナインのんでるんですよね。
キュ:フォーナインうまいですよね。
ブ:美味しんですよね。黒が好きなんですけど近くにシークワーサーしかなくて。
キュ:黒美味しいですよね。
ブ;やっぱそうなんですね。キュアロさんが言っていると確信が持てます。
キュ:フォーナインとあとは今キリンが出してる9%がうまいですね。まあその辺の圧力で最近のストゼロはうまいんじゃないかという。なので最近のストゼロだとレモンスカッシュ、アセロラ、ガツんとシリーズはうまいですね。特にレモンスカッシュがバカうまいです。まあやっぱり低量のアルコールはほろよいが買ってしまったので今は本当に9%の戦国時代ですね。
ブ:ほろよいって名が体を表していますよね。ちょっと酔いたいひとたち、一番お酒から遠い人たちに向けたもので、需要があることをよく見つけたなっていう。
キュ:それこそピーター・ティールのニッチ需要ですよね。今まで酒は酔いたいひとのためにあったけど、ほろよいたい人というのを見つけたわけですからね。そりゃ勝ち続けますよ。ストゼロが勝つにはまた別の力が必要なのかもしれないですね。
キュ:僕はストロングゼロが一番創造的だと思いますけどね。「絶対的な強度を持ったゼロ」なんで、本当に「無」なんですよ。ストロングゼロって本当にバッカスというか酒を飲むことに対する、一番ラディカルなネーミングだと思うんですよね。「強い無」っていうのは、本当に飲酒の本質を理解した人間がつけたんだろうなと思いますね。フォーナインはフォーナインでいいんですけど、ストロングゼロのほうが真実を示しているんですよね。結局どの9%酒でもスト缶って呼ばれるのはやっぱりストロングゼロが本質だからですよね。
ブ:フォーナインを好んでいるのが情けなくなってきました。知覚によって何かを決めるのではなく知性によって我々はなにかを決めなければならないので。カント的ですけど。そういう意味ではストロングゼロを選ぶ人間が知性的なのかもしれないですね。
キュ:本当にストロングゼロはネーミングセンスが抜群ですよ。
ブ:「強いゼロ」ですもんね。
キュ:ストロングゼロ自体には何のゼロ要素もないので、ゼロがどこから来たかって結局、お酒を飲むこと自体が基本的に「無」であることを理解してつけたってことになりますもんね。お酒は何も生み出さないからいい、それをわかっている人間がつけたんですよね。
ブ:酒が何も生み出さないっていうのは本当にその通りで。僕飲酒で読書会をやるっていうのが凄い自己矛盾を起こすなと思ったんですよね。まさに記事にするわけじゃないですか。記事にするってことは一つの作品ができるということで、作品になったからにはどんなに微弱であれ権威をもってしまうんですよね。それが飲酒と凄く相性が悪い。その相性の悪さをどう乗り越えるのかっていうのがこの飲酒読書会の課題なのかなっていう。
ハ:台無しにしましょう。
ブ:さっきみたいにパロディーしたり換骨奪胎したりありえない角度から話が出てきたり、全く関係のない話をしたりっていうのが本当に酒的な思考の仕方で、ロゴスに対抗している。ただ一つだけどうしても乗り越えられないのは記事になってしまうっていうことですよね。
キュ:酒飲んでいる状態の思考って凄い創造的な時ってあるじゃないですか。でもそれがシラフの状態の創造と繋がると一瞬で消尽してしまうんですよね。逃げ去ってしまうというか。あの感覚を文章にしようとした瞬間に本質が失われるんですよね。僕はいつもだったら議事録打ちながら参加してるんですけど、今日はレコーディングだけで、文章化はシラフの自分に任せているんですけど。でも飲酒の状態がレコーディングされるっていいですよね。まあこの読書会に意味があるかはともかく、そもそも意味をもったら終わりなんですけど。

8.酩酊的思考と弱く生きること


ブ:僕もいつもメモとっているんですけど、今日は取っていないんですよ。アルコールの本質というか酩酊の本質を取ると一つの作品として出さないというのがありますよね。あといま思い出したのが、作品としての権威がどうしても出てしまうじゃないですか、それに対してブランショがバタイユに向かっていったすごく重要な言葉で、正確な文言じゃないですけど「内的体験というのは作品として権威であると、どうしても権威であるんだけれども作品化した後に贖われなければならない」ってのがあるんですよね。本当にそうで、僕たちはこの作品を贖わなければならないんですよね。ゴルゴダの丘に引きずり出して磔刑にして贖うべきなんですよね。
キュ:結局ブランショとか、あとベケットがやりたいことって文章にしたら終わりなんですよね。本質的には最大なる、そして完全なる「沈黙」というのが彼らの目的で、それを文章化するのって凄い矛盾しているんですよね。でも逆に言えば、だからこそあの人たちは書いてるんですよね。ルイ=ルネ・デ・フォレとかもそうで。ルイ=ルネ・デ・フォレの場合は過剰に喋ることで沈黙を実現するということをしていて。ブランショとかもそういう問題ですよね。矛盾の中に出口を見出すというか。この読書会もそういうものを探していきたいですね。この読書会のいいところって、この前森岡正博さんに「結果的に面白くなかった本についてひたすら脱線するのが面白いですね」って言われて、まあ皮肉かもしれないですけどこれが真実ですよね。脱線こそが面白くて、それが読書会の本質じゃないですか。脱線したくないなら一人で文章書いたほうがいいと思うんですよ。だからこの記事が読まれなくても、いいんですよ。
ハ:僕は西野のオンラインサロン入っている人たちみんなに読んでほしいと思っています。てか、そのためにやってます。送りつけですね
キュ:プペルをハックする可能性があるとしたらこういう場じゃないですか。僕も西野を題材にした小説書きましたけど、あれは所詮ハックできてないんで。だからいいというか、一つの目標としてはいいかもですけど。
ブ:あれがハックしたとしたらまさに強い作品になってしまうんですよ。ずっとキュアロさんが言っている「弱く生きる」ということに反してしまって。だからハックできなかったこと自体が「象徴界サロン」の価値を証明していると僕は思いますね。
本当に「弱く生きる」ということがどれだけ難しいかってことなんですよね。「強く生きる」ことって本当に簡単で、人の悪口言ったり憎悪によって何か論理を打ち立てるというようなことでできるので簡単なんですよ。でも、シオランが言っているように「本当の善良さは怠惰から生まれてくる」、怠惰から生まれる善良さっていつでも打ち切られるものなんですよね。だから難しくて。逆なんですよね。弱さはすぐ淘汰されるから。強さではなく弱さの難しさというのが本当に重要だと思います。
ハ:進撃の巨人でいったらライナー・ブラウンですね。
ブ:どんどん進撃の巨人のステマ記事みたいになっていく。
キュ:西野の読書会記事の最初で「この記事は進撃の巨人のネタバレを過分に含んでいます」って書くの読者は面食らいますけどね。まあだからこそいい。
キュ:それこそ、「弱く生きる」のが重要なのって、結局「強く生き」たらそのゲームに取り込まれるんですよね。永遠にゲームの奴隷というか。ゲームの中で勝ち続けた人間ってのはゲームの存続に貢献し続けるわけで。「弱く生きる」ってのはそのゲームでひたすら負け続けることで、その中の強さってのは絶対ありますよね。この読書会があえて『闇の自己啓発』の暖簾を受け取らなかったっていうのは、『闇の自己啓発』が外を探す方向にいっているのに対して、この読書会は外がないとして、「じゃあ僕らはどうやっていきていくか」とか「弱く生きることに意味がないのか」に対して問えるんじゃないかとおもって。
ブ:暖簾分け受け取らなかったのは正解というか、この読書会の位置付けとして適しているなと思っていて、暖簾分けを受けるっていうことは結局セカンドクリエイターになることじゃないですか。権威を受け取るというか。それは嫌なんですよ。僕はこの読書会を一つの権威にしたくないんですよね。まさにさっき言ったように贖いたいんですよ。僕らの話した言葉は話したままに発散されていって、何も残らないのがいい。だから僕はこんな記事はだれも見ないほうがいいと本当に思っています。
キュ:それって創作の根本じゃないですよね。ある種の創作って残りたくないもので、それこそカフカが自分の書いたものを捨てるように言っていたというのに近いですけど、残らないからこそ意味のある作品っていうのがあって、でも皮肉にも残ってしまうんですよね。そういうものは。でもそこが担保されているからこそ、残らないことに向かうことには意味があると思いますね。だから僕は「矛盾の中に生きる」っていうのは凄くいいことだと思いますね。少なくとも文学においては、ひたすらに矛盾の中にあるっていうのは全然いいことだし、ヒップホップ風にいうとリアルじゃないことは文学において悪いことだとは思わないですね。
ブ:矛盾があるってことは弱いことにつながっていて、弱く生きるっていうことは波及力がないっていうことなんですよね。みんなに「弱く生きなよ」ということは強いことなんですよ。そこのアンビバレントがものすごくもどかしい。だからこそシオランは、シオラン自体は弱いのに強いんですよね、全体として。そのもどかしさをどうすればいいのかというか。
キュ:だからこそシオランはいいと思いますけど。まあ…
ハ:西野は強すぎってことなんですね。
キュ:今やゲームマスターですからね。
ブ:西野はあまりにマッチョで我々に何かを強いてくる。僕はマッチョが嫌いなんですよね。そういう意味では西野はマッチョで、というかそもそもあらゆる言説がマッチョなんですよ。

9.カジサック


ハ:副音声で西野が「プペルは自分の半生を描いたものです」って言っていて、そうなんだって思って見てたんですけど、カジサックっているじゃないですか、相方の。そのカジサックが途中で出てきたんですけど、メインキャラじゃなくて通行人Aで、しかも回想でプペルのお父さんにいちゃもんつけて殴りつける役なんですよね。これだけなんですよ。ちょっと待てよと。西野の半生の中のカジサックってモブなのかよと。これ自分の半生だよね。キングコングにそれだけしか思いがないのかと。めちゃめちゃカジサックがかわいそうで。カジサックの弱さは救済されるべきなんですよ。だから本当は革命のファンファーレを鳴らすべきはカジサックなのかもしれない。そうだ、それだ。 【カジサックのチャンネルURL(https://www.youtube.com/channel/UC642pLj4GXSj-0Ybdx3ytmA)

ブ:今のハイザワさんの発言の後にカジサックのyoutubeのURL貼って誘導しましょう。
ハ:まあキングコング自体は普通に仲いいと思うんですけど、映画の扱いが酷くて、そのくせ半生といっているのでそれなら出さないほうがいいんじゃないかという。別にゲストで出すならいいんですけど、自分の半生っていっといてお父さんを殴る役で出させるって、カジサックがそういう奴だっていってるようなもんじゃないですか。それでいいのかと。つまり終わってないんですよ、キングコングのゲームは。マヂカルラブリーは革命できたけどキングコングは革命できてないんですよ。だから西野にキングコングはこれでいいのかと問いたい。しかもオンラインサロンのメンバーってキングコング時代の西野に興味ないんですよ、オンラインサロンで夢を追う西野にしか興味ないんですよ。僕は弱さとしての芸人の西野を救済したい。
ブ:西野さん、記事読んでると思うんですけど、「そうなんですか?」良ければこの記事の投稿にリプライで答えてくれればとおもいます。
キュ:他者に賭けるってことですね、今のは。
ハ:カジサックに賭ける。カジサックしかない。西野の弱さを救うのはカジサックにしかできない。
キュ:今の話聞く限りはカジサックが父親を殴るだけの人ですけど、暴力って外部からやってくるものじゃないですか。それこそ、タランティーノとかみたいなプロットから外れたはずれた暴力性とか、もっとキャッチーなのだと住野よるの『君の膵臓をたべたい』とかみたいなラブコメの外からやってきた暴力みたいな。そういう暴力に対して、僕は悪いと思わなくて、西野は知らないですけど、カジサックをそういう意味で他者、外部としておいているのかもしれない。かもしれない。でも、外からやってくる暴力ってのは作品世界において、作家性の外を担保しているんで、まあプペル見てないんでわかんないですけど。プロットの外って問題は作品的にも世界の問題的にも重要なので。まあプペルはわかんないですけど。
ブ:自分のルーツを語りたがらないっていうのが人間にはあると思うんですけど、いかにカジサックが暴力的に西野を作っているのかっていうのが逆説的にみえるなと思いますね。あえて語らないことによって、逆説的な仕方で核心が語られるなと。いかにカジサックが西野に影響を与えているかというのが。まあ読みすぎですけど。
キュ:それこそタブーですよね。もしかしたらそれが西野根源にあるのかもしれないですけどね。
ハ:そうであってほしい。
ブ:もし西野さんがこの記事を見てくださっていたら、その辺のことについても語っていただければ僕らとしても嬉しいので。よろしくお願いします。
キュ:結局賭ですからね。他者を要請するっていうのも賭ですからね。僕らから西野への声がけは終わったので次求めるとしたら西野からの応答ですよね。
ブ:結構網羅しましたからね。あとは待つだけですね。

10.プペル文学の展望


ハ:やっぱりプペルアンソロジーを作ったほうがいいんでしょうか?
キュ:作るべきなんですよ。それこそ僕が最近企画したクラウドファンディングアンソロジーの話になるんですけど、あれはクラウドファンディングで小説に対する関与権を売ってそのお金で本を印刷するわけなんですけど、プペルへのパロディという意味合いもあるんですよね。作品としてはわからないんですけど、方法論としてはアクチュアルになれるかなと。
ハ:プペルアンソロジーはどういうのを考えていますか?
キュ:それこそプペル的な表象のハックですかね。
ハ:ハックするというのは具体的にどんなイメージですか?
キュ:僕の中でつまづいたことを問い続けるスタンスですね。
ハ:僕は多分巨人を出します。
キュ:直接対決が一番いいですからね。
ハ:僕が架空オンラインサロンで西野と諌山さんの対談を作ればいいんですね。決まった。
お:すみません、ご飯食べてました。
キュ:みんなで多分ご飯食べてるな、という話してました。
キュ:とりあえず今日の議事録は朝起きて酔いが冷めたら書きます。

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