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「模範的社会人」になるための自己啓発読書会 第二回ロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』

参加者【キュアロランバルト(キュ) ブロードウェイ・ブギウギ(ブ) ヤマグチ(ヤ) 織沢実(お) 虚ペン(虚) えすてる(え)】

1.導入

キュ:一応メンバーも変わったんで、また自己紹介からはじめますか。では、僕から。キュアロランバルトです。今は大学生で、フランス文学の勉強を主にしています。好きな作家はソレルスとかで、卒論はダンテにしようかなって感じです。最近はボボボーボ・ボーボボばかり見てます。よろしくお願いします。
ヤ:大学生です。専攻はまだ決まっていないです。主に小説を読んでた時期が長くて、好きな作家は磯﨑憲一郎とかです。よろしくお願いします。
虚:どうも虚ペンです。去年大学を卒業して、働いています。大学では仏文科にいましたが、何をやってたかというか浅く広くって感じだったんですけど。最近は政治思想や宗教思想、建築らへんをふらふらしています。
ブ:ブロードウェイ・ブギウギです。春から修士で、バタイユの研究をしようと思っています。好きな俳人は加藤郁乎で、最近はウマ娘をずっとやってます。よろしくお願いします。
え:えすてるです。キュアロランバルトさんとは『解放のあとで』という書簡で一緒になりました。薬学部生です。高校のときから主に鈴木大拙から、仏教と禅に興味を持っていてこの読書会に参加しました。
お:織沢です。大阪の南の大学で小説の書き方を勉強しています。今日、本を半分の半分も読めてなくて、許して欲しいなと思ってます。
キュ:僕も実は今15章で、まだなぜ今仏教なのかわかっていないっていう。
お:私は今なぜ瞑想するのかもわかってないです。
ブ:かったるいですよね、この本。
キュ:そうなんですよね、この本にイラつきすぎて、この本読むためにマインドフルネスが必要になるっていう。

2.マインドフルネス


キュ:まあ、軽く感想いって行きますか。自分がまず読んでて思ったのは、進化の過程でって話で生物的な要件と社会的な要件を一緒くたにしてて、例えばプレゼンすることの不安とかそういうのを進化の問題に混ぜてしまってどうなのかって思いました。あと、モジュールの話をしていて、結局瞑想する事で一つのモジュールが生み出す欲望を沈めたとして、それって瞑想するモジュールを導入しているだけで、結局選択的というか、まるで淘汰されるべきモジュールや欲望があるように言っているなと思いました。理性主義的に合理化可能であるように装っているような。その辺が納得いかなかったです。個人的に面白いと思ったのは本題と一切関係なく、心理学における「バイアス」という言葉の問題の話で、バイアスっていう言葉自体が「認知されるべき真実」があるかのように装う表現なのではないかっていうところが面白かったです。特に心理学の側からこういう問題があがってくるっていうのは、面白いと思いました。
ヤ:主軸に自然選択による設計が主題になっていたけども、自然選択による設計という言葉をどれだけの範囲で使っていいのかと疑問に思った。というのも進化っていうのはものすごい偶然性の中で、それぞれの個性とか傾向とか或いは突然変異というのがあって、その中でたまたまその時の環境に適応して残ってきたものが存在しているに過ぎない。だから、自然選択を設計と捉えるのはあくまで結果論に過ぎないんじゃないかと思う。でもこの著者はおそらくそこはわかって使っていて、あえて設計としてとらえてみようと序盤と最後に一回ずつくらい言っている。他にもこの際、自己があるかどうかは置いておこうみたいな話をしていて、議論の厳密さにそこまで重きを置いていないんじゃないか。もちろん科学や哲学の話に触れていくんですけど、それよりも実践の書としてある。ただその議論の甘さ・危うさも踏まえて、両側面考えていかないといけないと思った。
虚:この本は一月ぐらいにたまたま読んでいた。この本の感想というか、わりとマインドフルネスの話になっちゃうんですけど。この本の西洋仏教が、マトリックスの赤い薬の比喩からもわかるように、真実に目覚めようという文脈で仏教的な真理が使われていて、この本の中では自然選択の話がメインですけども、科学的なものに裏付けられているものが真理だというところで、仏教の正当性を科学で証明するというスタンスがとられている。宗教的なイデオロギーではなく科学としての仏教を捉えるという態度。この本は真実にめざめることで地球を救えるとあるが、仏教を用いて主体を新たな境地に到達させたとして、そこから出てくる結論が凡庸だなと思った。自己啓発化したマインドフルネス。最近『雑草で酔う』って本を読んで、あれは仏教ではなくサイケデリックスで、薬物によって主体を、意識を変容させて生きづらさをなくそうって本なんですけど、仏教にしてもサイケデリックスにしてもそれこそモジュールの話にもあるように、主体の変容や仏教でいう無我みたいな主体の変容や消滅というものを基礎に置く割には出てくる結論が社会に迎合するところにいっていて、社会を変革するものに至らないというのが個人的に不満。
ブ:正直読むのが辛くなるぐらい面白くなかったですね。そもそも僕は進化心理学を認めたくない気持ちがあって、というのも納得しかけちゃうような議論をしてくるけど、よくよく考えていくと破綻している点が出てきたりして、だまされそうになってしまうので。あとこの本で話題になっているのは上座部系の話なので、大乗仏教系の日本にはそんなになじみがなくて、読み進めにくかったです。上座部はキリスト教的な神秘主義に似ているところがあると思うのですが、この本では緩い神秘主義を勧めている感じがありました。そこに大衆受け狙いが見え隠れしてしまい嫌悪感を抱きました。神秘主義は「極めて」こそその本質をつかめると思います。そういうところが目について、仏教というテーマで書いているのはオリエンタルな感じを出して売り出したいというだけな気がしました。あと全体的にインスタントに幸せになりたいという気持ちが見えていて、エステかよと思いましたね。
え:邦題が「なぜ今仏教なのか」で原題「なぜ仏教が正しいのか」。原題の回答として科学実験で証明している。が、その論理展開が雑。科学的な実験が示すのは「人間に自由意志がない」という話で、それを仏教の「空」につなげていますが、そこは違うかなと思いました。それと、キュアさんの感想に似てるんですけど、これって結局マインドフルネスであろうというモジュールを導入しようとしているだけですよね。チョコレートを食べたい、何かを買いたいとか生産的でない煩悩を消して超生産的な人間をつくろうっていうニュアンスを感じるんですよ。そこがビジネスマンにはウケるのかもしれないんですけど、ぼくはそこが気に食わない。
お:半分も読めてないので感想のいいようがない。まず序盤はエッセイとして読んでて楽しかった。「私はいわば世界の問題の縮図だ」とか所々言い回しが面白かった。そう思っていたら途中から科学こととかが出てきて、よくわかんなくなった。私自身が仏教に近く、親戚に寺の人がいてお坊さんと話をする機会が多いんですけど。矛盾している部分があることを作者自身も言っていて、そういう矛盾がすっと入ってこない人のためにこれが書かれているのだと思う。その矛盾がすっと入ってくる人には興味深く読めないのかなと思いました。以上です。
キュ:なんかみんなこの本が嫌いで、今すごいなんかこの本に言いこと言ってあげられないかと考えてました。
ブ:僕はちょっと擁護があって、この本の内容って要は幸せに生きようって話じゃないですか。最後の章に幸福に生きようというのがたくさん出てきますよね。雑に扱われるのは宗教の側からすればたまったものではないかもしれないですが、宗教を利用して個人が平穏に生きられるのならそれはそれでいいかなと思います。あと以前『法華経』を読んだのですが、ブッダ自身も結構曖昧なことを言っていて(いわゆる方便なのでしょうが)、実際のところブッダも「苦行はやめて瞑想をして幸せになろうよ」くらいのことを言っていたのかなと思ったりもしたので、そういう点ではこの本を肯定します。
キュ:僕的にはこの本は「悟り」を目指すというよりもあくまで道具としてマインドフルネスを置いていて、個人の部分的な問題に対しての処方箋になれば宗教や仏教の問題に向き合わなくてもいいというのがいいし、プレッシャーがない。
虚:この本における科学的ということに対する考えに皆さんの疑念が色々あったと思うんですけど、なぜ仏教が真実なのかの真実の担保に科学をこんだけ使っているなら、この人はなぜ科学は真実なのかという本を書いたほうがいい。科学を免罪符にしすぎ。
キュ:最近に岩波の『因果性』という本を読んで、それが主にヒュームの因果性の問題をまとめつつその欠陥を検討して現代までの議論をまとめるという内容だったんですけど。それで例え話によくこの本に似たような臨床実験の話が出ていて、メインは形而上学的な話なんですけど、かなり科学哲学的な検討や例示を多用していた。で、まずヒュームの議論をまとめるんですけど、ヒューム主義的には雑に言えば個別の事象が個別に起きただけで、その因果を人間が感じることができない以上、法則を導くことはできないって感じで、ヒューム主義の欠陥として、明らかにつながっていないと思われる事象とその他の事象を弁別できないというのがあるとあげられていた。例えば、毎回晴れの晴れ男とマッチを擦って火がつくことは違うように思われるがヒューム主義を徹底させるとそれらを弁別できないという感じで。現代では我々に確かに思われる因果という感覚を重視する議論だったり、傾向性を因果性とみなすというような様々な議論があるようです。それがすごい面白かったという話なのですが、、、話の落としどころをミスりました。単にこの本に出てくる実験と似た例がたくさん出てくるので、思い出したという話です。すみません。

3.マインドフルネスと資本主義リアリズム


お:この本はどうして自己啓発読書会でとりあげようと思ったのですか?
キュ:なんで今仏教なんだろうねって話になって
お:なぜ今仏教なのかはもちろん気になるんですけど、そもそもなぜ仏教が想念の中に入ってきたんですか?
ブ:前の読書会で次の本をどうするかという話になった時に、僕が気になっていたのでこの機会に読もうと思って提案したら、帯に「解脱(イグジット)せよ」って書いていてみんなでいいね!となりました。
キュ:そうですね、前回ピーター・ティールやってたんで、加速主義の話ししててみんなの頭が「イグジット」を欲していて
ブ:帯に書いてある「解脱(イグジット)」って、つまり「自分たちとは異なるものを摂取したい」「硬直してしまった西洋世界の外を探したい」という、ある程度知的なアメリカのブルジョア達の欲求をうまいこと表わしている気がします。
虚:解脱せよ!といいつつ、この本は資本主義に外部がないというある種の資本主義リアリズムを受け入れている。精神科で薬もらうのと同じように仏教で健康になろうというような。資本主義社会の中で病んでしまった人間が摂取する心の科学としての仏教をこの本みたいに考えるのは、そもそもなんでしんどくなるのか、あるいは精神病になるのかというように主体が社会によって形成されるという問題をすっ飛ばしているのではないか。
ブ:そうですね、軸になっている進化心理学自体が脳の構造からスタートするので、物理主義が横行していますね。問題は人間の外じゃなくて、内側の脳の構造のほうにあるんだよっていうのが資本主義リアリズムに近いと思います。あと仏教における今の世界は苦だから脱出しよう、ニルヴァーナを達成しようというのが反出生主義っぽいですね。

4.マインドフルネスと反出生主義


え:僕もそれすごい思いました。進化心理学には疑問はありますが、あえて進化心理学を適用させて仏教を考えるなら、生殖や生産という自然選択からイグジットしようということ。反出生主義や脱成長の文脈からも読めますよね。
キュ:マインドフルネス自体が道具化された反出生主義だなと思う。そもそも仏教自体反出生主義の面が大きくて、森岡正博の『生まれてこないほうが良かったのか?』とかにも仏教の章があって、仏教を「もう二度と生まれたくない人の思想」と称している。個人的には仏教的、マインドフルネス的な反出生主義って木澤佐登志的に言えば伊藤計劃の『ハーモニー』的な反出生主義に近い。『ハーモニー』の場合は大きな全体に留まるという点で仏教とは違うんですけど。『闇の自己啓発』の中では、『ハーモニー』的な反出生主義の意識のでかい統合「ソラリス」として、マルキドサド が挙げられているんです。サドの思想ってのは全体の統合として「自然」があって「欲望」は自然の声として存在する。そこでは理性は文化的な産物でしかなく、聞く必要のないものとされている。それこそ自然選択の設計として欲望があって、その欲望のままに行動することが自由とされてるんですね。それはある意味不自由なんですけど、サド的な言い方をすれば自由で。僕は反出生主義自体は尊重されるべきと思うんですけど、ベネターみたいな反出生主義的な思想態度って物事を普遍化したことによって個別の問題を捨象している。苦しみを受ける割合って社会的な不平等に依存する可能性の方が高いと思うんですね。例えば、移民問題とかシングルマザーとか出生されて社会的に不利な立場に立たされる人間を反出生主義は無視している。ヴィーガンとかもそうで、社会的な条件を無視してしまいがち。こういう思想は新しい形で、文明と野蛮をわける手段になっている。この前読書会で読んだピーター・ティールもクリーンな車を使いことで自分が環境に優しい存在だと示すためにTeslaの車は売れたんだということを言っていて、結局そういうものは環境破壊する側としない側をわけるというものになっている。そのため環境問題にしてヴィーガンにしろ反出生主義にしろそれ自体は重要な思想であり、尊重されるべきものであっても暴力する側としない側というような境界線になりかねない。っていうのもサドの場合は自分たちを巻き込んだシステム自体が暴力なので、ソラリス的な反出生主義でありつつ、子供を産むこととかに対して発生する暴力が自分たちを巻き込んだシステムの中で肯定されるというか、同じ責任を持つんで暴力と非暴力を分けずに切り捨てないという点で、個人的にこのサド的な反出生主義(というか反出生主義と呼んでいいのかわからないですけど)はいいなと思う。逆に今の文学界隈であるような反出生主義が知的に正しいというようなスタンスには懐疑的ですね。皆さんはどうですか。
虚:スタンスとしては反出生主義。もともと埴谷雄高とかシオランを読んでいるような素朴な反出生主義者だったので、生まれる事で苦しみが開かれるのは良くないと思っている。エシカルな消費とかテスラの車を使うというのは既存の社会を維持するレベルでの倫理的な行為とされる。でもそれでいうと資本主義社会にはエシカル反出生主義は存在しえない。社会の存続を前提に企業が反出生主義の広告を打つということはない。倫理的な正しい態度として、反出生主義を掲げてベネターみたいに論理的に人類が滅ぶほうが正しいですって言っても、そうですかっていって人類滅ぶってことはない。じゃあ反出生主義者が倫理的に取れる行動って何かと考えると、『現代思想』の反出生主義特集の社会の再生産至上主義へのクィアとしての反出生主義というno futureを掲げるっていうのは再生産的未来主義に抗することで、反出生主義としては最近はこれがしっくりくる。今ある社会に働きかけていくほうがいいかなと。現代思想だとエーデルマンやダナ・ハラウェイのクィア理論とか。個人的にはしっくりくる。
ヤ:反出生主義については、高校の倫理でベネターが触れられて、それをきっかけに少し読んだ。授業は高校の1時間分だったからまあ、という感じだったが、印象的だったのは周りの同級生の反応。やけに食いつきがいい。ネーミングが蠱惑的に過ぎるというのがあるかもしれないし、中二病的なものが発動したのかも。哲学の重要な部分として「ある問いに対してどう答えを出すか」だけではなく、「どういう問いを立てるか」ということがあり、反出生主義は「産むべきか産まないべきか」というあまりにも触れやすい問いを立てている。問いを問い直すということを“反出生主義者”のどれだけの人がやっているか。そもそもベネター的な議論にすら触れずに反出生主義を標榜する人もいて。そこから、「子を産むなんて」と叩き出すようになるといった状況はグロテスク。あと、シオランも読むんですけどシオランはものすごいユーモアがある。シオランを扱った『生まれてきたことが苦しいあなたに』という新書に「ペシミストの王」とあったけど、僕は「ユーモア国からの刺客」なんじゃないかと思う。そこらへんの柔軟さが欠けた状態で、また論証の正確さもない状態で反出生主義に至るのは危険。これは、さっき言ったように、ネーミングが蠱惑的で、「産むべきか産まないべきか」という問いが触れやすいため、というのがあるのかもしれない。反出生主義的な考えを持つ人の中にはそれではいけないと言う人もいるかも知れないが、もし、出生至上主義的へのアンチとして反出生主義を使うなら、その名をズラすことで、まとってしまう危険性を薄めることもできるかも知れない。反出生主義ではなく、いうなれば脱出生主義。
キュ:それこそ現代思想の「反出生推奨主義」ってやつですね。
虚:僕も産めっていうイデオロギーへ抗する反出生主義には同意する。
キュ:さっきの世俗的な反出生主義の話で。僕に一回ツイッターで絡んできた反出生主義者がいて、その人はベネターも読んでなくて、反出生主義の文献も読んでなくて僕が反出生主義のワードを使っていたら「これはどういうことですか」と絡んできた。その人の理論は「他人には反出生主義を押し付けないけれども、自分の劣遺伝子を後世に残さないために自分は子供を残さないんだ」というもので、これって言ってしまえば逆向きの優生思想なわけで。そういう反出生主義が流行るのはヤマグチさんのいうようにグロテスクですよね。そこに対しては大元の反出生主義者がもっと慎重にならないといけないと思う。つまり、そういう大元の知にアクセスできない人たちに対してどういう社会構想ができるのか、どうしていけるのかということをもっと考えるべきだと思う。
ヤ:『なぜ今、仏教なのか』では何にせよ生まれた方がいいって言ってましたよね。
キュ:シオランのいいところは弱いところですよね。死ぬ死ぬ言ってしなないし。僕はなんか、ベネターは子供産んだぐらいのほうが逆に信用できる。あんな言ってたけど「結局産んじゃったよ」みたいな感じの方が今のベネターのゆーてお前子供産むだろみたいな状況よりは信用できる。そこらへんの弱さがベネターにはない。シオランとかニーチェ的な弱さはもっと大切だと思う。世俗的な反出生主義には弱さがなく、理論の強さしかない。
え:仏教と絡めて反出生主義を語るなら、ブッタ自身がそもそも身勝手で、いくら出家する前にできた子供だからとはいえ子供を捨てるんですよね。まぁ結局子供は釈迦の弟子になるんですが。ブッタは出生自体を問題視してなくて所有とか関係性の話にもっていっているんじゃないかな。子供を産むか産まないかではなくて、捨てたというのが重要。仏教と反出生主義は似ているようで、根本的なテーマ性が少しずれていると思う。

5.反出生主義と責任


ヤ:『なぜ今、仏教なのか』で論じられてる自由意志がないってところで話すと、産む産まないという選択を自我に委ねるのはどうなの?って思いますね。
虚:反出生主義は責任の話。子供をどんな苦しみが発生するかわからない世界に投げ出すという絶対問えない責任の話になる。仏教になると縁起やスピノザの自由意志の否定に関係するが究極的にいうと責任が根拠がないという話になる。生まれることが苦しみであるにしても、あらゆるものが縁起によって発生するとなると仏教の中で責任の生成が究極的にはできないんじゃないかな。まあ仏教は方便というのがあるので別の位相で論じられると思うんですけど、責任と自由意志は仏教と反出生主義を考える上で重要な論点になる。
ブ:ぼくが反出生主義について思うのは、なんでそんな時間を巻き戻そうとするのかというところで、彼らの根本にある「現在がこれほど苦しいなら生まれない方が良かった」というのは理解できるのですが、だったらむしろ「現在ある生を終わらせる」議論になるのが自然なんじゃないかなと思います。時間を戻して死ぬのは不可能ですが、死にむかっていくことは簡単ですよね。そして死のうと思った時に「どうせ死ぬんだし全部賭けてなんかやってやるか!」みたいな気持ちになれるとラッキーだと思います。
虚:ベネターは生まれた人は手遅れといっていて、それはそうだと思う。ツイッター反出生主義界隈では自分の出生を問いがち。未来のために〜というような論理がまかり通っている。地球の持続可能性とかもそう。反出生主義が本当に倫理的な立場であるとすれば語義矛盾ですけど「未来の生まれてこないすべての人のために」というタイトルをとるしかないんじゃないのかな。
ブ:私がうまれた苦痛をどうするのかという話であれば、シオランが母親に「お前みたいなやつが生まれると知っていたなら、お前なんか生まなかったのに」と言われて「だったら俺ってなにをしてもいいんだ!」となった話があると思うんですけど、そういう考え方のほうが救われますよね。つい最近、栗原康さん『一遍上人伝 死してなお踊れ』を読んだんですけど、一遍も似たようなところがあって、「あーーーーーー!!!!!!死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ!!!!!!なんでもやったらぁ!!!!!!」みたいな感じで好きにやってるんですよ。そういう一遍像は栗原さんの見方がすごく入っているでしょうけど、そういう方がいいかなと。どうせ死ぬんだしみんな楽しもうよというか。
虚:仏教も生まれてしまった以上は解脱やよく生きるという方向になっていく。良く生きるってなったときにマインドフルネスで閉じていくんじゃなくて、今あるのとは別の生を求めていく。反出生主義的に生まれてきたことを後悔するとか、マインドフルネスのように生きやすいようにするとかじゃなく、仏教にしても仏教的な精神の変革が同時に社会への変革がつながるような道があるんじゃないかと思う。
え:シオランは母親に「お前なんか生まれてこない方が良かったんだ」と言われ、自らの出生を否定されたことである意味生存の責任から解放されたわけですよね。一方、反出生主義は産むことの責任っていうのをイデオロギーとして掲げているわけで、生むことの責任、生んだからには・・という責任が、却って子供に責任を感じさせているということをシオランは皮肉っているんじゃないのかな。そういう意味ではシオランは反出生主義者というより仏教的だと思いました。それと、本筋の仏教はわかんないんですけど日本的な仏教大乗仏教や禅については、特に禅は人間の性を重視している。進化心理学的にいえば自然選択によって導き出されたような人間らしさを肯定しているし、それが『なぜ今仏教なのか』の論題と対立しているように思える。一遍も親鸞も一休もビバ・セックスって感じですし。そしてその肯定こそが、肯定の純粋性を保障するために諸々を「捨てる」ことが、生きづらい世の中を変えていける力になるんじゃないかと思う。
キュ:責任って話でいくともう一つ反出生主義が出てくる根幹に義務って問題があると思うんですよ。例えば生まれたら働かなきゃいけないとか、自分のことは自分でやらなきゃいけないとか、産んでもらった親に親孝行しないといけないとか、そういう義務があると思うんですね。で、生まれたことによって発生する社会への義務っていうのが反出生主義者の第一の苦しみの元なんじゃないかなと思っていて。またサドの話になっちゃうんですけど、サドがパンチラインを言っていて、娘が悪い男に思想洗脳されて実の母をめちゃめちゃ痛めつけるって話なんですけど、そこでお母さんが「私はあなたを産んであげたんだから恩義があるんじゃないの」みたいなことを言った時に悪い男が「じゃああなたは自分の膣の中に精子が入った時に自分のことを考えましたか?」っていって「そこで娘に「義務」を生じさせるのはおかしくないですか。それはあなたが自分の欲望のに従っただけであなたの問題じゃないんですか」って問い詰めるんですけど、これって言ってしまえば親子の産む/生まれるの関係に対して、義務を解除してると同時にお母さん側の責任も解除してると思うんですね。お母さんは欲望のままに行動しただけであって、行為と結果の因果はあってもそこに責任的な流れが生じない。そのため出生も欲望によって肯定される。まあそれに対する復習も欲望によって肯定されるんですけど、それは責任の問題ではなく「したいかどうか」の欲望の問題でしかないので。そういう意味でもサドはいいなと。木澤さんとかも障碍を抱えた方が社会に貢献することを是とするあり方に異を唱えているんですけど、そういう生まれたら社会と繋がらないといけないみたいなあり方を断ち切るという意味で反出生主義が取れる倫理的な態度なのかなと。
ブ:義務の解除といえば、最近僕の周りの人たちがみんな就職していって、彼らと話していると社会に「役立たないといけいない」みたいなことばっかり言っていたんですよ。でもそれっておかしくないですか?社会に何か負債でもあるみたいだなと思って、そのときに社会という言葉がイデオロギーの装置なんだなと強く感じました。社会なんて本当はないんだから、もっと自由にしたらいいのに。みんな社会を信じるな!
キュ:ちょうどサドの時期って社会契約論が流行った時期で、みんなが社会社会言ってる中で逆張りのサドが「社会とかバカじゃね。結局倫理とか美徳とか自分の中の理性も実は社会が生み出したものじゃね」といって「そういうのは信用しない方がいい」って言ってて。友人であろうが親であろうがカント的な言い方をすれば「人を手段として使え」というのがサドなので。そういう意味でサドは社会に抗するアクチュアリティがあると思います。
虚:「産んでやったんだから」ということを否定するというのはある種、生まれることを贈与として受け取り負債とすることを否定するということだと思うんですけど、アントニオ・ネグリがまず「資本制の生産の中で働くな」と言っていて、それでもやっぱり働かないといけなくて、それはなぜかといえば負債があるからで、だからネグリは「借金を負うな、借金をするならふみ倒せ」と言っている。経済のシステムで借金を負うことが負債なわけですけど、いまの社会の規範としての贈与―負債というところから、その負債の否定という意味での反出生主義と社会革命はつながってくると思います。
キュ:反出生主義の話しすぎましたね。

6.仏教の可能性、新たなる生の方へ


虚:仏教の話に戻ると、禅とかも習慣的な経験とは異なる経験をすることで主体を変容させるという話で、社会によって方向付けられたものを解除するというものでもある。『なぜ今仏教なのか』では自然の中での条件の否定って話でしたけど、今の社会の中での条件から解除される方法としても仏教は使える。鈴木大拙が西田幾多郎に影響を与えるわけですけど西田幾多郎はウィリアム・ジェイムズと鈴木大拙と同じぐらいベルクソンから影響を受けているわけで。日常的な経験とは異なるある種の強度の空間に触れることによってそこの意識を再構成するというところからドゥルーズ&ガタリの言う所の革命的な主体の生成につながるのかなと。仏教って日本の歴史でも京都学派にしろ国柱会にしろ戦前でも体制に回収され、マインドフルネスは資本主義的なものに回収されているわけですけど、仏教の可能性はまだあるのではないかと。
え:責任の面から見た、一遍はロックで色々示唆的なんですね。一遍は街中をクラブハウスにした人ですけど、その前の親鸞は救われるって意識を持つことで救われるって言ってて一遍は阿弥陀仏が勝手に救わせてくれる。我々が願うまでもなく救ってくれる。一切を阿弥陀に委ねることで全責任から逃れる。関係から逃れる。
ブ:とんでもない脱線するんですけど、今「ロックで…」って言ってましたよね?ロックってもうかなり体制化してしまっていて、昔若者が叫んでいたロックの位置にいまあるのはヒップホップだと思いませんか?「ロック」って言ったらなんかおじさんっぽくて、若者は「ヒップホップ」って言いますよね。(※ブギウギはブルーハーツが大好きです)
虚:わかります
ブ:もしかしたら一遍はヒップホップなのかも

7.仏教とヒップホップ


虚:空也上人の口が南無阿弥陀仏が形になっているやつも、言語そのものが形になっていて、言葉にフォーカスされてるところがヒップホップっぽい。『大乗起信論』を読んですけど、ヒップホップだった。それで…(通信切れる)
キュ:僕好きなラッパーでMC松島って人がいるんですけど。すごい評判の悪い試合があってUMB の一回戦でウジミツってラッパーと当たって、1バース目で松島が「お前誰だっけ」って言ってそっから無言になるっていうのがあって、そのあと相手になんか言われるんですけど「ちんこちんこまんこまんこちんこうんこちんこちんこまんこうんこ」って言って「ビートは贅沢に使うぜ」って言って一切対話しないっていう。それがすごい禅っぽくていいんですよね。
え:禅の公案すね。
ブ:ものすごい奢侈でいいですね。僕もヒップホップのソウルがあるので北海道出身のMC松島は応援しちゃいます。すごい面白い人ですよね。
キュ:僕好きなのは若い人と戦ったときに松島がビートを一切無視して「お前よりもこんな自由なフロウ」って言ってバチバチにビートから外れたノリ方をするんですね。ビートに乗らないってことを言い方で示しつつ、言表内容でも示していて。それがすごいいいんですよね。そのあとにひたすらトートロジー言ったり。
ブ:ヤマグチさん、えすてるさんはヒップホップ聞かないですか?
ヤ:音楽はあんま聞かないですね。
ブ:僕が好きなのは韻マンっていうラッパーですね。HIPHOPの王道はMCバトルみたいな喧嘩だと思うんですけど、韻マンは「俺は韻を踏むことが好きだから」っていって韻を踏み続けるんですよ。それをつまらないって人もいれば、僕みたいに面白がる人もいて。韻マンをつまらないと思う人って、韻マンに対して「お前には信念がない。言い返さんかい」って言うんですけど、それは全然的外れで、韻マンは信念をもって韻を踏み続けてるんですよね。
キュ:踏み続けることによってのみ自己を証明してるわけですもんね。
ブ:そこがやっぱりイカしてると思います。
え:僕は有名な試合しか見てないですね。でもやっぱりMC松島だとTERU戦ですね。
キュ:きんかんのどあめのやつですね
え:そうですね。あれはやっぱり本流じゃない二人だからこそできた試合だと思います。
お:ご飯食べてました。ラップはいとうせいこうとジョイマンしかしらないです。
キュ:ラップってビートとかフレーズをめちゃ引用するじゃないですか。そこはすごい現代文学的なあり方だなと思っていて。本歌取りとかになると昔からあるんですけど、それこそ現代フランス文学だと一切が引用から成り立っているものとかあって。それはもともと言語が引用だしとかいう話もあると思うんですけど。ヒップホップはもともとクラブにいけない人たちが、とかいう歴史もあって人づてに広まっていくものなので、それこそゼロ・トゥ・ワンではなく1からどんどん積み上げていくものだからこそ、言語に対する自己言及性が強い気がします。

8.音楽


お:普段どんな音楽を聴きますか。ヒップホップ以外だと。
ブ:大森靖子のことが大好きです。あの人は女の子の全部を歌っている。僕は女の子が大好きなので大森靖子を聞いて女の子のことを考えているときが幸せです。
キュ:僕は変な歌詞なのが好きで、negicoって新潟発祥のアイドルがいるんですけど、一番有名な曲のサビに、恋の歌で「もう止まらないネギ」ってのがあって。そのセンスが愛おしいし、ネギを象形というか吉増剛造的な「!」みたいに使ってる感じがある。
ヤ:今は耳栓にはまってて無音を楽しんでるんですけど。去年あたりは崎山蒼志とか長谷川白紙、君島大空、諭吉佳作/menとかの界隈を聞いてました。リプライでその辺の方々が小笠原鳥類詩集いいよねと言ってて、やはりなと思いました。
ブ:無音を楽しめるというのはちょっとうらやましいです。ぼくは四六時中耳鳴りがしていて、聴覚的に無を経験できないので。常に身体に有が組み込まれている。
ヤ:『なぜ今、仏教なのか』的に言えば、瞑想で感覚を鋭敏にすれば、音を分解して豊かな音楽に変えられるかもです。
ブ:なるほど、ということは瞑想の練習をすれば耳鳴りをマインドフルネスにできますね。
お:島倉千代子とか越路吹雪とか美空ひばりあのへんの昭和歌謡を聞いています。1968年の本を皆さん読んでるじゃないですか、僕は1968の歌謡曲を聞いている。闘争してる時に凄い軽い曲が流行ってて、こういう曲が流行っている間に安田講堂を封鎖してたりしたんだと感じてます。
虚:それでいうと最近『レフトアローン』って絓秀実とか柄谷行人が出てくる映画みたんですけど、その映画の冒頭が2000年頭に早稲田で学生が占拠していた地下部室から当局が学生を追い出す時にデモが起きて学生が夜になっても早稲田でキャンパス立てこもりしてて、その空気感の中ででモー娘。かけて踊ったりしてた。そういうのは1968年の断絶が隔世遺伝したのかなと思いました。
お:占拠した部室から退去させられる時にモー娘が流れていたという話は、タイのデモ隊が『ハム太郎とっとこうた』の替え歌を歌うのと似てる感じがするなと思いました。
キュ:そういえば、虚ペンさんさっき途切れちゃった話の続きはなんだったのですか?
虚:確認したら『大乗起信論』じゃなくて『混合般若経』だったのですが、基本お経なんですけどめちゃ畳み掛けるところがあって、仏教にもパンチラインあったな〜というテキトーな話です笑
キュ:結局なぜ今仏教なのか…
ブ:なぜ今仏教なのか、我々としては今ヒップホップが流行ってるからという感じですかね。
キュ:それでいうと、『なぜ今ヒップホップなのか』にも遡行しそうですね。

次回予告

第三回 西野亮廣『革命のファンファーレ』!


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