狡さは賢さではない

 人生最大にきょとんとして、対処の仕方がわからなかったあの日のできごと。そのひとは新聞にレビューを書いたのだけれど、そのとりあげた本がわたしも好きな作家で、自分がブログに書いたように、同じように面白がってくれていると、無邪気にうれしかったのだけれど、そのことをそのひとに伝えたときに、実は読んでないんだよねーあなたのブログを読んでそのまま引用しただけなんだ。と、言われたのであった。どうでしょう。わたしはこのとき、怒ってもよかったのではなかろうか。それはまた遅れてきた感情なんだけれど、こういうことを平気でできちゃうひとの作品は一気に色褪せる。それからずっと白けた気持ちでいたのだけど、もう何年も経つのでもしかするとそんなことはもう忘れて真面目に書いているのかも知れない。

 未だにわからないのは、そんなことをわたしに言う必要はないはずなのだけれども、何年も経ってもそのことを思い出すのは彼女の思惑どおりで、わたしを失声させる最も手酷い方法だったのだと思うとなんという戦術。どうせ書いても盗まれるなら、言わないほうが得策ではないのか。そんなふうに、いったん言葉を濁すようになってしまったのだ。言い淀んだ言葉のなかに必要な声はいくつあっただろう。

 求められない時間のなかにわたしは大切な言葉を見つける枷を与えたわけで、それは悪いことであったのか、それとも憎むべきことだったのか、すこし考えるとすでにもういま、自分がいる場所から追加してしまったからこそ、気づくことがいくつもあった。言葉を慎みなさい。言葉はあなたを規定する。それでも伝えたいあなたの言葉はなんなのか。わたしはあなたがそれを声に出さないことに対して、ほとんど怒っていたんだ。人生なんて短いんだよ。誰でも言えることをあなたが説明する意味はないから。わたしの企みをあなたは受け入れること。わたしはあなたの無邪気に傷ついていたんだよ。ごめん。謝るよりも謝れるほうがいっとう傷つく。

 人を嫌いになれないということで生まれるいざこざ。嫌いだよというよりも好きだよの言葉が好きなのです。ひとつの方法に躓いてしまう。そこから何も方法は浮かばなくなる。

 燐寸をすった後の硝煙の匂が好きだ。弾丸のにおいの代わりに、吸い込むべき、匂い。それはぜんぜん知らないにおいだった。

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