私本義経 猪武者と海の荒くれ


妻は頼朝兄上の贈り物。
妻の従姉は範頼兄上の妻。
どちらも頼朝兄上の組んだ婚儀だ。
つまり私は範頼兄上とともに、頼朝兄上のお眼鏡にかなったのだ。
少なくとも私はそう信じた。
そしてその日はもう一つよいことがあった。
後白河法皇に呼ばれたのだ。

実平も景時も範頼さえも海平氏に手を焼いておる。
義経。
なんとかならぬか?

ああ。
今こそ私の出番だ。
鮮やかに戦を収めねば。

まだ藤原忠清は潜伏し、時に京を脅かしていたが、私は大きな手柄のほうに気をとられた。
範頼兄上さえ手こずる敵を、ちょちょいのちょいでやれたらかっこいいじゃないか。
郎党を引き連れ、私は出征した。
時に文治元年(1185年)二月十六日。
突然の婚儀から五ヶ月ほど経っていた。


海風に吹かれる。
いよいよ平氏と最終決戦だ。


渡邊津。景時郎党


範頼兄上の軍は、陸路を長々騎馬で進んだが、私は淡路島方向から、阿波に入ろうと決めていた。
渡邊党と話がつき、 渡邊津から船を出してくれることになったからだ。
その数二百艘。
水軍持たぬ源氏としては、これはかなりの数ではないか?

だがその日。
海は大いに荒れていた。
海慣れした渡邊党すら臆する暴風雨。
船頭も漕ぎ手も青ざめて首を横に振る。
まっぴらと。
されどこの間も範頼兄上らが、平氏に苦戦防戦されておいでやも知れぬではないか!
弓で脅してても私は行く気だった。

ところがそんな場に現れたのは、梶原景時の郎党であった。
本人の名誉おもんぱかって、あえて名は伏せておく。
その者の言うにはこうだった。

この嵐である。
例えば船尾にも舳先(へさき)にも櫓をつけ、船をどちらにも回しやすくしておくというのはどうだろうか。

私は目を丸くした。
わが郎党を見渡すと、一同今にも吹き出しそうに頬を膨らませていたが、こらえきれず、ついにみな、いちどきに噴いてしまった。

戦う前から逃げ仕度か。
嵐にも立ち向かうことなしか?

戦いに、挑んでこその兵である。
時に攻め、時に退くのが兵である。
退くことを考えぬのは猪武者なり!

そうかそうか。
だがこの義経は猪武者である。
退くことを前提には戦わぬ。

強い語調で決めつけると、私の兵たちはやんやと喝采してくれた。
私は得意満面で、おびえている一団の水夫たちにも目を向けた。

もののふは戦さしてなんぼだ。
その伝でいけば、おぬしらは漕ぎ出てなんぼだと思うが。
戻るにせよその際には業をみせ、漕ぎ返して戻るのだろう?
逆櫨など、必要か?

これには水夫たちも失笑し、失笑は徐々に大笑いに変わっていった。
そしてその笑いは、水夫たちの意地と度胸にもつながっていったのだ。

しょうがねぇなあ、お侍様がた。
怖いもん知らずの人数だけ、船出してやらあ。
その代わし、死んで届いても自業自得やでえ?


勇気ある水夫らのおかげで、私たちは出航できた。
二百艘のうちのたったの五艘、百五十騎。
されど暴風雨は我らを妨げるどころか背(せな)を押し、船は通常の半分以下の時間で対岸、阿波の勝浦に着いたのだった。



それでも地球は回っている