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今、公演をやるという事。

はじめまして。こんにちは。

劇団藤一色という団体に所属している、藤屋 安実(ふじや あみ)と申します。
劇団に所属しているといってもついこの間1年経ったばかりで、普段は俳優ですとか、衣裳ですとか経理ですとかを担当しています。

そんな私ですが、2021年2月11日~14日にかけて、劇団とは別の自主企画で演出・主宰をやらせていただいています。
こんな情勢ですので準備に色々と時間がかかりましたが、ようやく予約開始日のお知らせまで至ることができました。
ひとえに座組の関係者が沢山頑張ってくれているからです。
改めて本当にありがたいことだな、と日々感じております。

ここまで何とかこぎつけたものの、緊急事態宣言が発令された今、「そもそも、何故"今"公演をやるのか?」と風呂に入ってて急に疑問に思いました。

たぶん、みんなが各々自分なりに思いを持って、今もやれる所まではやろうとしてくれていて、それぞれきちんと今ある事実を認識した上で「中止するべき」との声も上がっていないのだからもしかしたら蛇足なのかもしれませんが。

身近な団体でも延期・中止の声明がそこかしこで聞こえる今、何故上演に踏み切ったのか、今一度整理してお客様にお伝えすることが主宰として大事なのかなと思い、初めてnoteで私の、藤屋個人の考えを書くにいたりました。

一応書いた後はもう一人の主宰に確認を取って、そこで「公開するな」って言われたら公開できないんですけど、皆様の目に触れているという事は公開できているという事なのでしょう。

公開できる前提でお話します。


2020年4月。

新卒で入社した会社を3月末で退職し、「演劇を仕事としている正社員ではない成人」という意味での『演劇人』デビューをした直後、忌々しいウイルスが流行って緊急事態宣言をくらい、1.5ヶ月ほど家に引きこもることになりました。

デビュー戦である劇団の脚色公演を7月に控え、公演に向けて役者のオファーだの予算組みだのをやっていた所だったので本当に堪えました。
まぁどこもそうだったのでその辺の苦労話は割愛します。

その当時も、「公演を行うか、中止するか」の話し合いは劇団内で持ち上がりました。

まずは劇団主宰の2人と「自分たちはやりたいと思ってるがどう思うか」とマンツーマンでお話し、その時は「正直やりたい。でも、お客様の命を預かってまで公演を行う自信がない」と回答した記憶があります。

結局、沢山の人達の協力の元に公演をやり、幸いお客様や関係者にも感染者が出ることもなく公演は終了しました。

経理もやっているので劇団のお財布事情にも色々と気を回してましたが本当にきつかった。
クラウドファンディングと物販のおかげでぎりぎり黒字に押さえましたが、黒字といっても最近のお年玉くらいの金額だったんじゃないかと思います。
いや最近のお年玉事情とか知らんけど。
詳しくは言えないですが、黒字になっただけましだったというべきか。

公演関係者をはじめ沢山の優秀な方々に助けられ、ご来場いただいたお客様、クラウドファンディングで支援して下さったお客様、全ての方々の尽力があって尚、ぎりぎりの黒字です。
本音を言ってしまえば、コロナさえなければどんなに、と思ってしまう自分がどうしてもいます。

7月の本番を迎えるまでに、沢山の団体が公演延期、中止、無観客配信への切り替えを発表し、実行していました。

それを見ていると、「そもそも公演をやる必要性」とはなんなのか、そもそも演劇でお金を取る意味、黒字にする意味、劇場でお芝居をする意味、今まで当たり前だった演劇の価値が根底から覆っていきます。

クラウドファンディングにもいくつか種類があって、藤一色では「実行確約型」=「クラウドファンディングの目標金額を達成しても、達成できなくてもプロジェクトを実行する」というものを選択しました。
すると、「何故目標金額を達成できなくても公演を行いたいのか、記載した方が良い(意訳)」と運営会社の方からアドバイスいただきました。

目から鱗でした。

確かに、お金が無いなら公演やらなきゃいいんですよね。

やりたくて、でもお金が無くてクラウドファンディングをして、でも、お金が入らなくても結局公演やるんだよね?

クラウドファンディングには、先程の「実行確約型」とは別に「目標達成型」=「目標金額を達成すれば実行する、達成できなければしない」という種類もあります。
お金がないならば、無理してやらずに目標達成型を選べばよかったんです。

何故お金が無いにも関わらず、クラウドファンディングをしてまで、その公演形態に拘ったのか。

何かしらに自分が価値を見出している事はわかるのですが、改めてその価値を言語化する、という作業は初めてでした。

クラウドファンディングのページにその指摘を踏まえて色々書いているので、お時間ある方は覗いてみて下さい。

クラウドファンディングのページはこちら
※一番下の「想定されるリスクとチャレンジ」という項目が該当します。

オンラインでも作品は届けられる、では"生"でお客さんに見てもらう必要性はあるのか。

映像・映画にも芝居は存在する、では舞台上のそれとは何が違うのか。

この状況下で、このリスクを負ってまで、お客様を劇場にお招きする必要があるのか。

ストーリーを届けたいなら文字でいい。
声を届けたいなら録音、録画でいい。
定点が魅力的でないなら映像編集とカメラの技術を学べば良くて、ならば舞台上である必要も無い。

もちろん、「生で見るから"演劇"なんだよ!」と乱暴な議論をするつもりはありませんし、そういった映像等の企画を否定する意図もありません。

ただ、それまで当たり前に活動してきた"演劇"の定義とか、存在意義を問われているようで、内側にいる自分からは出てこないような疑問だったからこそ、強く引っかかりました。

空気を漂って感染するウイルス、感染を防ぐためにはなるべく他人と空間を共有しないで生活するのが一番いい。

【不要不急】という言葉が生まれ、演劇をはじめとした娯楽や芸術は「まぁ大事だとは思うけど生きるために最低限必要なものではないよね」という線引きのもと、そちら側に含まれている。

「社会の歯車とはよく言ったもので、何かしらの凹と何かしらの凸をはめ込んで世界は回ってる。
何かの凸にも凹にもはまれない時、人は孤独を感じる。
歯車の歯が噛み合わなければ社会は回らない。
それでも、どんな形も受け止めて包み込んでくれる不定形さこそが芸術の尊さであり、失われてはならないのだと思うのです。」

私が最近よく唱えている文言なのですが、この"歯車"に該当するのがきっと、そういう【必要必急】な何かなのだと思ってました。

時間通りに動く電車、24時間営業しているコンビニ、スーパー、医療、通信、ガス水道電気UberEats、私が公演の為に引きこもっていた1.5ヶ月の間にも世界は無数の歯車によって動かされ、結果的に人類は滅んでいないのだからそちらと比べれば確かに演劇は【不要不急】です。

生活インフラと同じ土俵に立って「演劇は必要なんだ」と主張するのは無理です。演劇が、芸術や娯楽がなくても、人間は生きていける。

最低限噛み合う歯車が「必要」で、なくても社会が回るようならその歯車は「不要」である。

んーでも、例えば今あげた電車とか、電気とかも、江戸時代にはなかったわけで。
じゃあ江戸時代の人達は生きてないのか。
いや、生きてるだろうな。それは。

なんだか、「目は2つあるけど1つでも見えるから片目無駄じゃん」みたいな話じゃないですか。
別に無駄ではないよな。言ってる人見たことないし。

じゃあそもそも、「必要な歯車」や「不要な歯車」みたいな話じゃなくて、社会が回る=歯車が噛み合うとは、あくまで「需要」と「供給」の関係なんじゃないかと。私は思います。

需要という凹に対して、供給という凸を提供する。
すると、歯車が噛み合う。
噛み合うから回る、みたいな。

そうやって誰かが凹を見つけて、そこにうまいこと凸をはめ込んで、それを繰り返しながら今の「社会」という大きな何かが回っているわけで。

だから江戸時代に「電気」という歯車は不要だし、逆に誰かが「電気」という歯車を発明したから人間社会の形が変わって、その歯車がないと回らないような形になって、令和の今まで続いているのではないか。

という事は、そこに凹がある限り、凸は必要とされるんだと思います。

もっと言うと、人間はそもそもに不定形です。
似たような形の凹があったとしても、完璧に収まるには何かしらの隙間が生まれたり、どこか自分を削って凸をはめ込んでいる。

望んだ凹と自分の形が合わないから、需要と供給が一致しないから例えば面接に落ちたり、恋人にふられたり、集団に上手く馴染めなかったりして悲しくなる。

自分の形を責めるよりも、需要と供給が一致しなかったんだな~と考えた方がいくらか息がしやすいような気がしますが、それでも自分本来の形をなるべく保ったまま受け入れられるのがやっぱり幸せなんだと思います。

そんな不定形な人間が、「この形のまま当てはまれる何か」として求めた凹が、結果として芸術や娯楽になったのではないかと、なんとなく携わっていて思います。

どこからが芸術でどこからが娯楽なのかは人によってそれぞれでしょうけど、その「それぞれ」も不定形の一種というか。

「私はこれが好き」を叶えようとしたり、「何が正解か分からんよね人生」を具体化しようとして、その分枝分かれして、境界線をあいまいにしながら発展してきた営みが文化芸術なのではないでしょうか。

プログラミングだっていくらif文を重ねても想定外の事態は起きる訳で、そこでelseなりtry-catchなりを用意しておかないと落ちるんですよ。一緒一緒。
想定外を受け止める受け皿がないと必ずどこかにしわ寄せがくる。

不定形だからこそ、それぞれの凸を包んで、隙間を埋められる。
人間が不定形な凸であり続ける限り、人間を人間のまま受け入れられる凹=芸術もまた、需要と供給の関係が保たれた【必要必急】な歯車であるんじゃないかと、私は思います。

深夜の2時にこんなん書いてるもんだから多少恥ずかしい事になってきましたね。
でも、あまり自分の形が好きでなかった私にとって、集団とか新社会人とかいう歯車は少しだけ息苦しくて、芸術分野に救われながらなんとか20数年生きてきて、どうしても【不要不急】だとは思えないのです。

人間が不定形であるのは事実で、私のように自分のはまっている凹に対し違和感を抱えながら生きている人はきっと私だけではないでしょう。

その不定形さを芸術分野が受け止め、受け皿となることで歯車が回り、社会の大きな回転へと繋がっていくはずなのです。

分かりやすい事に、演劇の公演は一人では打てません。
打てる人もいるかもしれないけど、私が理想とする演劇は一人ではできません。

需要が無くなれば、供給が存在する必要もありません。

また、需要以上に供給を生み出しても結局凹と凸の削れる部分が増えるだけで、それを自己満足と人は言うんじゃないですかね。

需要を読んで、供給を生む。
供給の対価としてお金を需要側は払って、供給側はそのお金を元にさらに供給を増やして。
所謂「社会人」と呼ばれる人々、ホワイトもブルーも関係なく、全ての【仕事】はそういうサイクルの中で食物連鎖を繰り返しながら生存していて、でも【仕事】に従事する人間たちは不定形で、自分にぴったり当てはまる凹凸を探している。

そこに需要がある以上、供給する者としてお金を頂く行為は立派に【仕事】として成り立っていると私は思います。

いくら売れてなくても、生活費の大半がアルバイトで賄われていても、「自分が何に需要を見出し、何を供給しているのか」という問いに「演劇に需要を見出し、演劇を提供している」と答えられる人はみんな『演劇を仕事にしている』人たちなんだと思います。

『演劇人』というワードに、「夢追い人」みたいな「現実見えてない」的ニュアンスが含まれているようで私はずっと苦手でした。
劇団主宰の加藤が『演劇家』という言葉を創造していたので勝手に借りますね。

需要がある限り、誰かが必要としている限り、私は『演劇家』として舞台上でお芝居をする行為でお金を頂く方法を模索し続けようと思います。

こういう情勢ではありますが、私は「生で見る演劇」が結局の所好きです。
映像が嫌いという話ではなく、ただ好きなのです。この辺りはエゴと需要のバランスが難しいですね。
だから、「生で見ていただく」為にも可能な限り感染予防策は徹底したいですし、その形でお客様に納得していただけなければそれは結局自己満足になってしまう。

もちろん仕事ですので黒字も目指さなくてはなりません。
1997年生まれ、今年24歳の小娘が立ち上げた企画に合計20名弱ものメンバーが参加してくれています。きちんと劇場さんと契約を結び、お金も払っています。
誰もボランティアでこの情勢下参加しているわけもなく、それぞれが仕事として私が求めた凹に対し、凸を提供してくれています。
だからこそ、この公演をビジネスとして、仕事として成功させなければならない。

【仕事】として、相応の責任をもって感染症対策、黒字対策、可能な限り健全な状態で公演を終えるために日々少なくない労力をかけています。

それでも、赤字になるかもしれません。

演劇の仕組みとして、本番を迎えるまで実際どれほど売上があるのか、どれほど支出があるのかは公演が終わるまで分かりません。

劇団とは違い、今回の公演は『自主企画』です。過去の実績があるわけではなく、どのくらいのお客様がこの公演を望んでいるのか、どのくらいの需要があるのかは未知数です。
実際にお客様をお迎えするまでは分からない以上、「需要がある」と断言するには早すぎる段階なのかもしれません。

売上が支出に満たない、それは単純に需要と供給の関係が成り立たなかっただけで、凹凸の削れる部分が多かったわけで。
そういう事もあります。私の見積もりが甘かったとしか言いようがない。
チケット金額も色々見積もって、文化庁の補助金に申請して(まだ申請が下りるかは分かりませんが)、最大限赤字を回避するために尽力しているつもりです。

もしかしたら、クラスターが起きるかもしれない。
どんなに対策をしても、どんなにお金をかけても、「完璧な対策」なんてものは存在していない。
公演をやるうえで、お客様を招くうえで最低限守らなきゃいけないものはある。専門家ではないからと無知であってもいけない。
出来る事、できる最大のことを見極めて、一つずつそれをやって、それでも感染するリスクを抱えながら他の人と空間を共にする。

今、社会で回っている他の歯車たちと、私がやっていることの何が違うのでしょうか。
昨今の情勢で、不要不急だ密だなんだと騒がれながらも生活の為に、誰かの需要を満たすために働いている他の誰かと、根本的には何も変わらないはず。

だからこそ、「演劇なんかやっているから感染するんだ」「好きな事をやってるんだから赤字ででもやるべきだ」といったご意見は、どうかご遠慮いただきたいのです。

私は、演劇を提供する『演劇家』として、その道に従事する者として最大限の努力をもってお客様をお迎えしたいです。

「それでも不安だから劇場にはいかない」という方もいらっしゃるでしょう。
致し方ありません。
残念ですが、需要と供給が一致しなかったという事実があるだけです。
劇場に来ていただきたい凹も、劇場に行きたくない凸も、どちらが正しいわけでもなく形が異なるだけで、どちらの意見に強制力があるわけでもない。

「劇場に行くのが不安だけど、作品を観たい」という方に対しては、映像配信チケットを用意する予定です。
形が違う代替案ではございますが、ご検討いただけるよう受け皿を用意しています。

「劇場に行きたい、生で観るのが好きだけど感染症対策に不安がある」という方は、別途noteやTwitterにて本公演の感染予防策をご案内する予定です。
一度こちらをご覧いただき、何かご不明点がございましたら団体のメールまでお問い合わせください。

残念ながら新型コロナウイルスはいまだに世界に存在していて、重症化するリスクも、死に至る事例も数多く存在していて、それでも生きていくためには歯車を動かさなければならない。だから今の状況を踏まえて、どうやって凹凸を組み合わせ、歯車を動かせるか考える。
何かを仕事にするって、そういう事なんじゃないかと私は思うのです。

変わってしまった世界を回顧していても仕方がないので、私達が今できることを精一杯やったうえで、お客様をお迎えし、公演を打つ、という判断を私はしました。

どうか、勢い任せの浅慮でもなく、無知からくる暴挙でもないことを、どうかご理解いただけますと幸いです。

また、公演延期や中止を判断された方々を批判する意図は一切ございません。
仕事として中止や延期を判断することもまた容易ではなく、責任ある決断をされた事、尊敬の念に堪えません。自分がいつその立場になるかも分からないな、と常々思いながら過ごしております。

一刻も早い収束を祈り、座組一同準備を進めていく所存です。

劇場でお会いできる日を、映像で作品をお届けする日を楽しみにしております。

最後になりますが、ここまでの意見はあくまで一個人である藤屋の主観ですので、このnote自体に関するご意見やお問い合わせは私個人に宛ててご連絡くださいませ。

【問い合わせ】fujiyaami@gmail.com

逆に、公演に関してのお話はTwitterの公式アカウントで随時発信しておりますので、詳細はそちらをご参照ください。

【『その青』公式Twitter】@sonoao2021

引き続き、『その青は彼女がために』を何卒よろしくお願い申し上げます。

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