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三日坊主は何度でも蘇る。

先週、流行病のワクチン四回目を打ってから記事の更新を忘れていました。もとより、有益なこともなければ、練り上げた文章でもない路傍の石ころみたいな記事ですが、今年はなんとなく毎日更新しようと思っていたので、また今日も書いてみようと思います。

日記というものが続いたことがありません。
夏休みの絵日記も、8月末頃から「こういう夏休みだったらよかったのに」と思いながら理想の夏休みの絵日記やら1行日記やらを創作していました。その後も、折に触れて日記を書こうとしていたのですが、とんと続かない。

イラストレーターで友人の八咲ヒサさんが中学の頃から毎日つけている日記があるというのを聞いて「わぁ、すごい!」と感銘を受け、早速つけはじめた日記は1日で頓挫しました。三日坊主とか、そういうレベルじゃなかった。

そもそも、習慣を作らなくちゃいけないというのが難しい。習慣というのはやっかいで、1度構築すれば考えなくても身体が動く。その反面、1度崩れてしまうと案外脆いもので、すぐに跡形もなく消え去ってしまうものです。

断続的になんとなく続けてきたたばこを吸う習慣は、思い立ったらすぐに辞められる性格です。けれど、日記だけはどうしてもつけられない。紙のノートに書く日記というのは特別で、何百年後かに「庶民の生活の記録」という歴史研究の貴重な資料として大切にしてもらえる可能性がミリ程度、微粒子レベルで存在しているのです。このnoteとかいう、明日サイバー攻撃によって消し飛んだら何も残らない媒体とはわけがちがう。せめてもの抵抗として、年間3,000円ほど投資して、紙の手帳にあれこれ書き込みをしているのはそういう理由もあるのです。毎日の出来事や心の有り様を日記には書けなくても、予定と希望と回顧と懺悔くらいはまとめて手帳に書き付けておくことはできるから。

日記の効能として「書き残す」こともあるけれど、書くことそのものが自分の思考や記憶を補強する意味もあると思う。ツイートという文化に浸って10年、どうしても思考も言葉も断片になりがちだから。私は怠惰で、人恋しくて、見栄っ張りだから、こうしてテキストに向き合うことが時折とても億劫になってしまうことがある。ここだけの話だけれど。

そういう考えもあり、今年はpeace of cake(運営会社)へのどんよりした不信感を持ったままnoteを再起動させたので、なんとなくこんな風に「日記」だか「エッセイ」だかわからないものを書いておこうと思う。

三日坊主で死んだって、いい。何度でも蘇れば、長い目で見れば「日記を書き続けている」と言い張れるかもしれないし。