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波、受動態、ペルシア・ミニアチュール

海岸で波を見ていると、何度かにいっぺん大きく波が寄せてくることがある。
砂浜に乗り上がってきた波が染み込むように、薄く浜辺の砂を引きずり込むように海に戻ってゆくと、次にやってくる波とぶつかりあってお互いを食い合うのだが、何度かにいっぺん、引いてゆく波があがってくる波よりもうんと静かなことがあって、そういう時には波の勢いがそのまま砂浜をひろく昇ってくる。
長く眺めていると、特別大きな波が来ることには規則性があるような気がしてくる。
6回目くらいに一度大きな波が来そうになって、でも来ない。その影響があって7回目はおとなしいが、9回目あたりに大きな波が来る気がする。
でもその次はまた違うな。思っていたよりも早く大きな波が来るかと思えば、11回目も待ってやっと来ることもある。
それとなく数えてしまうけれどある瞬間とつぜん、規則なんてないということに気づく。
ひとつの波は前の波の繰り返しではない。
ひとつの波ごと、そこに起こっていることはそれぞれが別のことなのだった。
すべてはいちどきり。

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習うこと

何かを習うのがわりと好きだ。
学校時代、授業とかドリルとかテストが苦ではなく、楽しかった。
知らないことを知って、話を聞いているうちになんでだろうとかそれは何だろうとか考えることも、自分の世界がちょっとずつ広がってゆくような感覚もわくわくした。
きっと私は理想的な学生だったと思う。毎日学校に来て目をきらきらさせて好奇心いっぱいに先生の話を聞き、素直に勉強をし、健康で成績も良い。
けれどいまは、自分のそういう特質が実はただ受け取ることだけにひらかれていて、いざ「つくり手」というような立場に立とうとした時、ゼロからものごとを能動的に生み出そうとする性質からはいくぶん離れているということを痛感するようになった。
なにか少しでもそこに素材があれば、私はそれを身の内のなにかしらを通して変化させたり膨らませたりして質感をもたせることはできる。
けれど、目の前の素材を見抜いて、手をいれて、はたらきかけ、自分の語るべきことをそのものにかたちづくらせる、というようなことがうまくできない。そういう行為をする自分をうまくイメージできない。
私は、自分が触れたものが、自分のなかから何を想起させるのか、どんなかたちをひっぱりだして響き合って侵食しあうのか、そういうことをただただ、わたしというものをつかって体現するようなことしかできない。
自分は真にクリエイティブな人間ではないのかもしれないと考えると淋しい気もするが、その分、わたしは媒体であり、今ここの地面や時間から飛び立つことができるのだとしたら、それはそれで良いと思えるようになった。

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オルハン・パムクの『わたしの名は紅』

オルハン・パムクの『わたしの名は紅』を読んでいる。
舞台は16世紀終わりのイスタンブール、細密画を書く一派のなかで起こる殺人事件が物語の要。
ペルシアの絵巻物にはあちこちに人物や動物や草花が描かれていて、そこかしこでそれぞれの物語が繰り広げられている。各所で小さな声、大きな声で語られるお話は、向こう隣を巻き込んだり行きつ戻りつしながら大きな奔流へ織り込まれる。
『わたしの名は紅』の進み方もまさにそんな感じで、登場人物ひとりずつ(それぞれの絵師やその家族はもちろん、「犬」とか「木」とか「金貨」、時には「死」も主人公になって語り始める)が見たもの、過去、思いをぽつぽつと語り、それがだんだん物語の筋を明らかにしてゆく。
絵だと視線があちこちを自由にさまようことができるが、言葉はその並びを順序立てて見つめて紐解いてゆくしかない、しかしその、少しずつ色が置かれる様子、世界がかたどられてゆく様子をじりじりと指先で追っているうちに世界の起伏が見えてくる感じがとてもいい。
ガルシア・マルケスのように迷宮になるほどには複雑でもない。
物語としての色気に身を浸しながら、次の語りに耳を澄ませる。

まだ1/3くらいしか読んでいないので魅力の一端しか味わい切れていないのだが、私が最初にはっとさせられたのは、言葉がそこにあってそれが紡がれてお話になるのが物語であるわけではなくて、まずはそこに物語があり、それを語るために神様がことばを授けられた、という箇所だった。
コーランが文字や歌に関わりがあるということを思い出してはっとする。
それから、細密画を描く画家たちが目指すその「芸の至高」というのが自分のオリジナルの絵を描くということではなく、あくまでも過去から引き継がれ選り抜かれた技術を一生をかけて自分のものとし、あまりに細密なものを描き続けるため画家たちは晩年みな失明するが、その失明したときに、見えないということのためにこれまでの中でいちばん素晴らしいものを「見る」ことができるようになる、その時に実際の目が見えずともその素晴らしいものを紙に描きとめることのできるよう腕を磨いておく、という考え方に、現代の芸術家と職人との間の関係について普段もやもやと考えていることに繋がる何かがあったような気がした。
わたしもたぶん、そういうようなものでありたい。

"知ることは見たことを思い出すことだ。見ることは覚えないで知ることである。つまり絵を描くことは闇を思い出すことである。 
(本文124ページ)

実はこの本は友人から頂いたものなのだが、昨日読んでいたらはらりと一枚の紙が落ちた。それはメモ書きのような手紙で、この本はもともとその手紙の主から友人に送られたもののようだった。
手紙を書いた主は私も知っている、声とことばを長年見つめ格闘されている方だった。
その方のことばが、この本の世界の隙間からこぼれおちてきたことに、息を飲んだ。


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『わたしの名は紅』読み終えて(2022年4月2日追記)

最後まで読んだのに感想を書いていなかった。Twitterに書いたものをここに抜粋。


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