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子どもが自ら育つ件について

【2020年8月の下書きから】

2年半前に生まれた子どもが2歳半になる。赤ちゃんだった子が気づけば子どもになってずんずん歩いている。びっくりだ。全くわたしが育てたという感じがしないから。親として、いわゆる育児という作業はしてきた。お乳をたくさんあげてきたし、まいにち食事を用意して口に運んだ。夫と協力しておむつを替え、風呂に入れ、絵本を読み、抱っこ紐に抱いて果てしない散歩に出かけた。途方に暮れて泣いたことは何度も。それでもこの子はわたしたちが育てたんじゃない。自分でここまで育ってきた。

よく眠る新生児だったことを思い出す。お乳を飲んでは眠り、飲んでは眠り。彼は眠りから覚めるごとに肥っていた。母乳を飲むほうも飲ませるほうも不慣れでへたくそなので哺乳には手間どったが、一度吸いつくと一心不乱に飲んだ。飲みながらやがて寝るのだが、寝てからも決まって数十分は飲み続けた。ついに口が離れてベッドに置かれると、ばんざいのポーズになって動かず眠ったが、ときどき身体を震わせながらヤン車のエンジンをふかすような音やドリフト音をたてて父母を驚かせた。眠るあいだもエンジン全開だった。そしてその眠りを走りきり、泣いて目を覚ました彼を抱き上げれば、前回より少し重たくなっているのだった。

彼が生まれてたった3か月でヘルニアの手術を受けたときのことを思い出す。手術の前、わけもわからず父母から引き離されて麻酔医のもとに連れて行かれる赤ん坊は、パン工場で働く人がかぶるような不繊布の帽子に頭を埋もれさせて泣いていた。その涙も出ないほど怯えたくしゃくしゃの顔に心が締めつけられるようだったし、数時間後、病室に帰ってきた彼が麻酔でこんこんと眠り続けていた時間も何度不安に襲われただろう。目が覚めてほっとしたのも束の間、彼は切られた部位が痛むのか泣き通しで、お乳も飲めなかった。こんなに小さい身体で痛みを引き受けさせられて、なんてことだろう。もうこれからしばらくはこんなふうに泣き続けるだろう。最近やっと見られるよになった笑顔ももう見せてくれないかもしれない。夫とふたり、小さな彼を順繰りに抱いては途方に暮れた。ところがその日の夜には、彼はにこにこと笑顔をふりまいていた。涙の名残りはあるものの、輝かしい笑顔だ。様子を見にきた執刀医もその笑顔には驚きを隠さなかった。

彼は小さな身体の中に自らを育てる強大な力を持っていて、わたしたちにできるのは彼がその力を行使するのを阻まないことだけ。うすうす感づいてはいたことが、この手術後の夜、確信に変わった。必要とされているものを差し出して、活動の機会を奪わずにいること。そうすれば彼は彼自身の脳もからだも十全に育てていくことができるらしい。乳児は無力でわたしが守ってあげなくてはいけないとか、わたしがいなくては生きていけないとか、そういう思いあがりをわたしは棄てた。彼の主人は彼であり、わたしでも夫でもないのだ。

というのはまあ理念の話で実際の生活に落としこめているかというと怪しいところがあるのだけれど、子どもとの生活を築いていく上で礎のような考えになっている。


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