寄り添いと理解の態度(推敲あり)

ちょっと文章がフワッとしてたので、朝に上げた「理解しないまま理解する」を推敲しました。

寄り添うことと相手の感情に呑まれることは違うのだな。
知らない、意味が分からないままでも、相手を全て理解しないままでも理解することが出来るのだなと思った。

他者の感情の渦に巻き込まれて「可愛そうに」と思うのと、何を言っているんだこいつと距離を感じて「馬鹿じゃないのか」と思うのは多分同じ、等価値なんだ。等価値で断捨離可能。

他人の感情に巻き込まれていいのは嬉しい時だけ。
それ以外の「あなたの気持ち分かるよ」になんの意味がある。
時間の無駄なのだ。
100年に一度くらいは意味があるのかも知れないが。
感情に巻き込まれずにああこの人は悲しいのね、辛いのねと理解するだけで足りる。
巻き込まれると、突破も打開もしにくくなる。一緒に溺れるだけ。
慰めが必要な時期は以外と短いほんの一瞬だ。
早く悲しみが癒えるようにと祈る。
苦しみや困難に対処するその人の勇気を応援する。
それ以上は意味がない。
酔っぱらいを真に受けて相手にし続けるのは、疾病利得を与え続ける共依存。
愚痴は一度なら聞いてやる。
自分を理解する課程に愚痴が必要な人もいる。
ただし同じ内容を何度も言うのは時間の無駄だから、「それは以前にも聞いたからもう聞かないよ」と言ってやるのが優しさ。

罪悪感には意味がない。
サバイバーズギルドも意味がない。
自分が関与したこと、あるいは関与しなかったことによる罪があったとして、自分という小さな我がそれを罪であると思考で意識をしただけで、宇宙の因果応報はもっと深い計り知れない報いだったり結果を淡々と与えてくるのだから。
罪悪感は持つ意味が全くない。
自分の思考の計算が当たることはたまたまでありまぐれなのだから、のたうち回り悔いるのではなく、粛々と厳かに覚悟して生きるのが正しい。
責めてくる他人は無視をして、自分自身、罪を犯したことない者だけ石を投げてこい、と伝えれば足りる。
罪悪感を省けば自給自足で生きることが出来る。
本当に悪いと思った時だけ謝ればいい。

いいこと悪いことどちらも存在しない。
ただし、その人が信仰するものの教義の中では存在する。
自他を断罪したくなったときは自分のなかの信仰に気がつくとき。
大概安っぽい思い込み、新興宗教である。
知らないうちに自分が狂信していることに気がついたならば、その宗教にはまり囚われていることを自覚した上で、その状態の自分がが幸いであれば、そのまま自他を断罪しつづければいい。
ただし、正しさ同士の戦いが戦争になるのである。

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