奥深い日本語

西洋文化の入ってくる以前、江戸時代までは、日本語といえば、”いろは歌”が基本でした。五十音の”あいうえお”に変わっていったのは、明治時代以降と言われています。


”いろは歌”を今はどれだけの人が諳んじていえるか、わかりませんが私が小学校の頃にはまだ、国語の時間に暗記したものです。


いろはにほへと ちりぬるを(色は匂えど 散りぬるを)
わかよたれそ つねならむ(我が世 誰ぞ 常ならん)
うゐのおくやま けふこえて(有為の奥山 今日越えて)
あさきゆめみし えひもせす(浅き夢見じ 酔いもせず)


この”いろは歌”は、実は仏教の般若経(涅槃教)を和風にアレンジして見事に作られたていることを、皆さんはご存知でしょうか。お経の’’諸行無常 是生滅法 生滅滅己 寂滅為楽”をベースとし、それを詩的に、しかも宇宙の哲理、真理を埋め込んだ、和歌なのです。日本語の音節48音を、七音と五音に分け、それを4回繰り返すという平安時代の「今様」という歌の形式を守っています。全ての仮名を一回だけ使うという制約のもと、意味を持たせ、そしてその意味というのがお経であり、宇宙の哲理が芸術的に表現されている、という事実に、私は驚きを禁じ得ません。


諸行無常 = 色は匂えど散りぬるを  
     = 香りよく色美しく咲く誇る花も、やがては散る
是生滅法 = 我が世誰ぞ 常ならん  
     = この世を生きる私たちだが、永遠に生き続けることはない
生滅滅己 = 有為の奥山 今日越えて 
     = 生まれたり死んだりを繰り返す無常の現世を超越し、目覚めの境地へと向かいなさい
寂滅為楽 = 浅き夢見じ 酔いもせず
     = 悟りの世界に至り、苦しみから解放されたとき、そこで今まで己が仮想の現象という夢に酔いしれていたということに気づ き、真の楽しみを得られることであろう

このいろは歌には難しい制約、ルールの中にあって、そこに天の配列、宇宙生命の成り立ちを組み込まれています。5、7、5の俳句の世界に同様、リズムに乗せ、その上悟り、目覚めの真実を匂わす実に奥深い表現だと思います。


一方、現在主流の五十音「あいういえお」は明治以降に定着し始めたと言われています。母音が5個という、数字の5が基本にあること以外は、全く新しい配列になったわけですが、そこでもまた、いみじくも、”あ”ではじまり、”ん”で終わる。”あうんの呼吸”を連想される並びになっています。”阿吽の呼吸”とは、お互いの息がぴったり会うこと、言葉を交わさなくても、相手の心が読めることなどを意味します。このことわざも、仏教に由来していて、菩提心、涅槃を表すとされています。阿吽の”阿”は、吐く息、”吽”は吸う息を意味し、万物のはじめと終わりを意味すると言います。ひらがな の最初の文字があ、終わりの文字がん、とは、いろは歌に負けるとも劣らない、素晴らしい構成だと唸ってしまいます。神社の狛犬、沖縄の魔除けのシーサーも、片方の口を開けている方が、’あ”、口を結んでいる方は’ん’を表していると言います。仏教的には、阿吽は真言(仏の真実の言葉)とも言われ、生誕から悟りの境地に至るまでの道のりを象徴していると考えるようです。


また、納税日本一で、銀座まるかんの創業者、斎藤一人さんによると、日本語はあい=愛からで始まる。とおっしゃっています。偶然か必然かわかりませんが、言葉で一番大事なのは愛と、その様に日本語は作られているのです。また、母音の数は5つありますが、その数が5つなのも、陰陽五行思想の、万物は全て木火土金水の5元素からなり、言葉もこの組み合わせによるものだと言います。


さて、日本語には英語で言うところの、swear words、口汚い罵り言葉、と言うのがほぼありません。これは日本の大きな特徴だと思っています。口汚いことは、社会で生きていく上で許されないといっても過言ではありません。

日本には、言霊という意識が存在します。言葉に宿る霊魂、命のことです。言霊信仰という言葉が存在するほどに、古来から日本では言葉の放つパワーを信じ、日本語に反映してきました。言霊は発した言葉と事象が一致するというのが基本的概念です。言霊については前著にても触れていますが、日本人の特質として欠かすことのできない心性(心のあり方)ですので再び取り上げます。


飛鳥時代と言われる遥か昔6世紀からはるか現代に至るまで実に1300年以上も愛され続けている日本の文化の一つに、短歌があります。日本最古の歌集、万葉集4500首の中に、7世紀に生きる日本人をして、それ以前に日本に生きた先人達からの言い伝えがあったことを示す、言霊の力が和歌として描かれています。


 神代より 言い伝え来らく そらみつ倭国は 皇神の 厳き国 言霊の
 幸はふ国と 語り継ぎ 言い継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に見たり知りたり (山上憶良)


 志貴島の 日本の国は事霊の 佑はふ国ぞ ま福くありこそ (柿本人麻呂)


 言霊の 八十の衢に 夕占問ふ  占正に告る妹 はあひ寄らむ(柿本人麻呂)


つまり、古代から日本では言葉は単なる意思伝達のためのコミュニケーションツールではなく、そこに言霊がのっかっており、そこから発せられるエネルギーの作用を十分に認識していたのです。言葉には命が宿っているから意識して使いなさい。という教育が1000年以上も前の日本国内に広まっていたことの証拠が当時の制令の中に見つけられます。「不適当な言葉や不吉な言葉を慎み、不埒な言葉は戒めなさい」言葉に関する教訓を日本人は千年以上も身につけてきたのです。


放った言葉通りの現実が起こるという言霊信仰は、良くも悪くも当てはまりますので、いい言葉を話せば良いことが、悪い言葉を話せば悪いことが起きるということになります。そこから転じて不幸を連想させるような言葉、縁起の悪い言葉を”忌み言葉”と呼ぶようになりました。結婚式などでお祝いの席で”忌み言葉”を使うことはタブーとされ、日常でもわざと意識的に違う言葉を選びます。例えば、「披露宴を終わります」の代わりに「お開きにします」を選ぶのはそのためです。日本の車のプレートナンバーは下2桁の数字が49、42は欠番となっていて、希望されない限り発行しません。42=死に、49=死苦、始終苦、を連想させるため避けられているのです。日本語には「忌み言葉リスト」なるものまで存在し、なるべくネガティブな言葉をコミュニケーションの場に持ち込まないように、言う前に好ましい結果を願いながら喋るという意識的な精神活動が個々人の中で行われていました。


日本社会では、”言葉遣い” に大変重きを置きます。大切な教育は言葉遣いと言っても過言ではありません。言葉=人となりだからです。


日本は治安が良く、安全な国だというのは日本社会の特徴として世界に広く認知されていることですが、間違いなく言葉遣いに対する教育が行き届いていることと無関係ではないでしょう。


丁寧で美しい日本語を話すことに日本人はとても敏感です。


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