人の柔らかい部分を踏みつける

私たちは感情の全てを共有することはできない。感じること、感じる程度、感じる頻度やきっかけはその人だけに与えられた宝物だ。そんなことは既に先人たちが物語や歌に乗せてくれたおかげで、周知されている。だからこそ、誰かの感じたことを無かったことにしてしまうことはあまりに勿体の無いことだ。

一週間前、一人で映画を観に行った。思いつきで映画館に行き、なんとなく選んだ映画だったが、ぼろぼろ泣いた。わんわん泣いた。一つ席を開けた隣の男性からも鼻を啜る音が聞こえた。劇場の至る所から鼻を啜る音が聞こえる。嬉しかった。他の観客の感じていることや程度は鼻を啜る音からは推し量れるはずがない。けれど、同じものを見て人の内面にある柔らかくて温かい何かを感じられたことが嬉しかった。例え知らない者同士であったとしても、人の感動が流れ込んでくることは私の心を満たしていた。
エンディングが流れて、会場が明るくなっても皆余韻に浸っているようだった。素晴らしい空間だ。この上なく。このまま私の一日は終われば良かった。良かったのだ。

奴は突如現れた。心地の良い空間であったシアター1を後にする最中。皆の柔らかい部分を踏みつけ、踏み荒らし、得意げにする怪獣。私は、私たちは、怪獣の吹く火に傷付けられた。

「え?泣けるとこあった?」
半笑いの声が響く。

怪獣は知らない男性だった。怪獣は一緒に来ていた女性に向かって火を吹き続けている。彼女は少し困った口調返す。「あったよ?あのシーンとか、、、。」「あぁ、まあね。」彼女の、私の、私たちの柔らかさは萎んで死んでいった。あの嬉しさは、温かさは、どこに行ったのだろう。私は悲しかった。帰り道も心は真っ黒な雲に覆われていた。一週間経った今でも、あの悲しさを思い出すことが出来る。

さて、冒頭の話に戻ろう。私たちは感情のすべてを共有することは出来ない。だからこそ、意図せず怪獣になってしまうことがあるのかも知れない。ここで言いたいことは「人の感情を理解しろ」なんて難しいことではなく、人の感じたことを殺してしまう人にはなって欲しく無いということだ。寄り添え無くてもいい、何言っとんねん、と思っていてもいい。ただ、感情の否定は誰も救わない悲しいことである。

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