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前世の記憶、百日紅が舞う中で浸った余韻。 │ ヨルシカ 後書きの"あとがき" Vol.2

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※本記事は、ヨルシカ LIVE 2023 「前世」の演出・朗読に関する内容を含みます。
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2023年1月25日。
冬の大阪城に、満開の百日紅の花が舞ったあの景色を、私は後生忘れないと思います。

それは現実の冬に対する季節外れの花でもあり、
物語の中の狂い咲きの桜のメタファーでもありました。

こんな素敵な「おしらせ」がやってきた2024年のこのタイミングで、
ずっと心にしまっていたあの作品への想いを書き留めます。

静かな朗読とともに始まったその作品は、
見るものすべての想像を置き去りにして去っていきました。

春の緑道、川沿いのベンチから始まった物語が、
あっというまに過ぎていく四季をなぞるように広がっていき、
夏の終わりを思わせる、それはそれは美しい百日紅の散り際とともに終幕しました。

竜神の生贄になっていた娘を、ある国の王子が救い、恋仲になり100日後に迎えに来ると言って、王子は旅立ちます。100日後に王子が戻ると、娘は病で亡くなっており、王子は嘆き悲しみます。すると、娘の墓から1本の木が伸び、美しい花を100日間咲かせました。それが「百日紅」という漢字の由来だとも言われています。

Domani 百日紅伝説

恋人の帰りを願う100日の夢の跡。
「時間」と「想い人」を繋ぐ百日紅の下で語られるその物語は、形容しがたい衝撃を残していきました。

私は、隣で涙を流しながらまっすぐ舞台を見つめていた中年男性を忘れません。
開演前はキャッキャと騒いでいた女子高生の、もの一つ言わず静かに帰っていく背中を忘れません。

会場をでておぼろげに浮かんだ月も、入った時とは様相を変えたポスターの絵も、
そして余韻に浸る時間をくれた大雪も、あの日のすべてを忘れないでしょう。

それほど記憶に焼きついた作品でありながら、会場の拍手すら忘れさせるような、
真っ白でいて、あまりにも鮮やかなあの舞台を、改めて記憶をたどりながら文字にしていきたいと思います。


▍-はじまり- 川沿いの小道、夢の話。


場面は川沿いの緑道から始まります。

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赤い花の下、ベンチには彼が座っています。
「私」は、日曜日になるとそこに通いました。彼は「私」の頭をいつも優しく撫でます。風が吹き、赤い花が揺れる、そんな小道の情景が浮かびます。

そこではおそらく男女であろう二人の、そんな思い出話が語られました。

彼は夢の話をします。彼がまだ彼でなかったときの記憶の話です。
その時彼は木で、風を待っていました。
風が来れば枝先を揺らします。そうしなければいけない気がしたのです。

その前は草でした。花だったかも知れません。


そんな夢の話。
彼が話す夢、記憶の話、それはつまり「前世」のお話でした。


「私」は、彼の話が好きでした。


彼は言いました。

「散歩をしよう」

「リードはできないけれど。」

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誰もが固唾をのんでそんな朗読を聞いていました。
「ライブ」と名のついた作品で、これほどまでに「物音」を感じない空間がかつてあったでしょうか。

そしてその静寂を切り裂いたのは、
真紅の衣装のSuisさんによる『負け犬にアンコールはいらない』、名曲でした。

私が初めて音楽で涙を流した日です。

▍-夏- 語られる前世と、春から夏へ渡る鳥


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彼が語る「前世」の一つは、夕暮れの空を飛び、地面では虫を食み、そしてまた飛び立つために風を待つよだかの姿でした。

水浴びをした水面に映る太陽。よだかの彼は焦燥に駆られ飛び立ちます。
風を掴み、木々の上を太陽に向かって吸い寄せられるように。

ぐんぐんと夜の空を上に向かって駆けていきます。


そして刹那、それは太陽ではなく月光であったと気づくのです。


地面に落ちた彼の前世は、次は花に蕾に、そしてそれを育てる土壌、土壌を育むみみず、みみずをついばむよだかと、輪廻のように続いていきます。

彼はこう告げます「どれも良い生だった。」と。

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彼の前世の語り。それはまるでその場にいる全員が同じ景色を見ていたかのような時間でした。

ヨダカ。
夏鳥に区分される夜行性の渡り鳥です。

そしてよだかは、宮沢賢治の『よだかの星』にもあるように、醜さからくる罪悪感、自らが食べてきた命との関係、そして最後は星になって解脱するという死生観を表した存在としても語られてきました。

ヨルシカの作品における「夏」が何を意味しているところなのか、
あるいは「夜」を何に例えているのか、私はそんなことに想いを馳せていました。

「夜」「夏」というヨルシカの世界観において重要な2つの概念が交差する「よだか」から、前世の語りがスタートしたのです。

▍-秋- ゆれる百日紅と木陰のベンチ


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赤い花が一つ「私」の頭に落ちてきました。
彼はその赤い百日紅の花を「取ってあげよう」と手を伸ばします。

彼の手が「私」の髪に触れたとき、ふと想いました。「いつから髪を切っていないだろう」と。

通りすがりの人々が、赤い花の下で私達を見ています。

そしてある雨の日、
彼はベンチで待つ「私」に傘を差してくれました。

雨の暗さに勘違いをした街頭が、満月のように揺らめいています。

高架橋を抜けるその道が、
「私」と彼が一緒に暮らした部屋への道であることに、「私」は懐かしい気持ちになります。

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前世から「いま」へと舞台が映り、
2人の関係性が明らかになっていきました。そして同時に、含みを持った曖昧な表現が増えていきます。

百日紅の赤い花が落ちました。
夏の終わりを意味しています。

そして高架橋と夕方に少し早く光る街頭、
場面は秋へと移ろいます。


昔一緒に暮らした恋人同士でしょう。
昔を懐かしみながら、1人夢の話をする彼と、静かにあるく「私」が対比するように描かれます。

そして舞台は秋を惜しむまま冬へと落ちていくのです。『思想犯』のフレーズのそのままに。

▍-冬- 二人で過ごした部屋で、めくられることのないカレンダー

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彼の家には、見慣れない棚が1つ増えています。

日めくりのカレンダー
日付は変わっていません。

2人で使うには大きいテーブル、吊り下げのライト。
姿見、2人がけのソファ

私は部屋の奥へと進みます。
ふと、あの頃はなかった棚に足がぶつかると
頭上から、何かが落ちてきて床に転がります


それは、一枚の写真。


ピンク色の花のようなものがまばらについた木の前で
彼と女性が2人で写っている、つまり「私」と彼の写真。


「楽しかったんだ」


季節外れの春のような陽気が続いた秋口、
桜の狂い咲きが話題になりました。

2人でレジャーシートを持って桜並木に向かいます。
一本の樹に人々が集まっていました。

それは満開とは程遠い、
いくつかの桜の花がついているだけの樹木。


「楽しかったんだ」


ソファで丸くなる「私」
窓が開いていて、彼の匂いが外から流れてきます。

彼はベランダの椅子に座って
柵の向こうを眺めていて、

満月ではない月が、大きく、明るく見えていました。

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2人が過ごした部屋は、あの頃とかわりません。
机もソファーも、そしてカレンダーの日付さえも。

日付は1月25日。冬のまま、その部屋の時間は止まっていました。

そして昔を懐かしむ彼と、ソファで丸くなる「私」
座面に置かれた深皿と姿見。そう、姿見。


音にならない静寂の音が、会場を包みました。


全てがつながり、まるで前世をめぐる彼の語り口のように、観衆がこの物語を振り返ります。

▍-春- 冬眠からの目覚め、そして盗まれた日々とフィナーレ。


Suisさんの透き通るような声で、名残るように歌われた『冬眠』では、一曲の中で、ここまでの物語で辿ってきた季節を、巡るように駆け抜けていきました。

月光とともに何もない部屋で春を待つ『嘘月』そして2人で過ごした窓際を歌う『左右盲』。

どれもこの2時間を彩る名曲です。

そしてラストは『春泥棒』。
二人を分かつ「死」が盗んでいった日々を思い出させます。

2人で見た狂い咲きの桜、そのメタファーとしての百日紅。川沿いの小道、木陰に座ると無邪気に寄ってくるその姿。

満を持して奏でられた『春泥棒』のラスト、会場いっぱいに待った鮮やかな色の花びらは、春の終わりを告げる桜吹雪ではなく、2人を繋いだあのベンチの赤い花でした。

春を盗んでいく夏。
そして夏の間の100日間咲き誇る“百日紅”の花

色のない時間を過ごした彼が、めいっぱいの鮮やかな花に祝われるには、一夏を超える長い時間がかかったようです。

名作『春泥棒』で描かれた、大切な人を連れ去っていく別れの季節としての「夏」が、まさに散っていくフィナーレとなりました。


▍ヨルシカが描く四季


わずか2時間半の物語、
一瞬にも、彼が過ごしてきた長い長い時間のようにも感じるような、短くて長い物語。

そんな2時間半の中で、不思議と巡る四季をいくつも感じた人が、私の他にもいるのではないでしょうか。


何度も、何度もめぐる四季。
毎年めぐるからこそ、残酷にもその数だけ別れを思い起こします。


ヨルシカの描く詩には、「死」や「別れ」、そしてそれらに強制される「忘却」を、季節や憧憬と紐づける描写が多くあるように思います。

そしてそれらの四季の表現が、
いつも私たちの中にある記憶、それも視覚だけでなく匂いや温度、湿度、触覚、あらゆる感覚に呼びかけてくるのです。


思い出、夏の匂い、夜。
大人になること、誰かを忘れること。


ヨルシカの描く四季には、いつも少し懐かしくて切ない記憶が香っていて、その匂いが、私たちの心を動かすのです。


おわり


※朗読部分の物語は1年半前の記憶を頼りに書き出しました。
n-bunaさんの語った内容と異なる点も多々あるかと思いますが、私の記憶に残る姿、情景を書き示すことのほうが趣旨に則していますので、温かく見守っていただけると幸いです。


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