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昨日見た夢を思い出せない 3(中編小説)




「それで、どうするの?あなた」
音羽はぎょっとして頭を上げた。通り過ぎた二人連れの会話だと知っても、まだ胸がどきどきしている。
次第に人が増して、あたりは活気づいてきていた。ただこちらを見向きもしないのに変わりないし、誰も彼女に興味を持っていない。
倉庫の向こうには吹き抜けの屋根の下に点々と柱が立てられている。潮に混じって魚の代わりに油の匂いが鼻をついた。まるで巨大な神殿のなかで透明になったようだ。
みな、種類はさまざまながら絵の具を抱えている。油絵具、水彩絵の具、アクリルペインティング、あちこちにイーゼルを用意している姿があり、自分の体を真っ赤に彩った姿もあった。色水のバケツがそこかしこにあった。これほど人に満ち、スプレーを振る軽快な音、台車で物を運ぶ重い音に混じって聞こえるのはこれでもかと声を潜めたひそひそ話ばかりで、辺りは結局しんと吸いとられるような静寂に満ちていた。

音羽は携帯を取り出して、連絡先を探した。
(ゆかちゃん、今、入口にいるんだけど)
思ったよりすぐに返信があった。
(おとわ、来てるの?ちょっと待ってね。晃ちゃんの設営が終わるまで。十分ぐらい。すぐに行くから)
 にわかに心臓がどきどきして、かっと頭に血が昇ったような気がした。だがそれも数秒続いただけで、すっと冷えて戻っていく。立ち上がると夜の星がひとつふたつ、薄曇りのスモッグの間から光を落としている。夜の海風が波の音と静けさをまともに吹き付けてくる。寒い。昔なら、立っていられなかったような気がしている。


新幹線の中で、何だか頭が痛いな、と思った音羽は、母にお手洗いに行ってくると言い残して席を立った。
「荷物はいい。バッグだけ持って行くよ」
ずきずきする額を扉のガラスに当てて、過ぎ去っていく景色をぼんやりと見た。母は離婚してから岡山の祖母の家で暮らしていたから、音羽は名古屋から岡山へ数日行って母と過ごし、おばあちゃんに挨拶がてら一緒に顔合わせの場へ行こうと、そういう話だった。
どこだってそうよ。娘の親の近くがいいの。うまくいくの。子供の面倒も見てあげられるし、苗字なんてどうだっていいけど、やっぱりねそばにいて欲しいわよ。だってさみしいじゃない。
今日は母のおしゃべりと笑い声が耳についた。
ちょっと、うるさい。

この子はねおとなしい、どっちかというと内気な子なの。いつもきちんとしてて、困らされた記憶なんてまったくない。
そんな母の言葉をずっと本当だと信じてきた。
わたしって、何かね。
かわいいって言ってくれる友達もいるけど、すごく美人とかじゃない。すごく頭がいいわけでもないし、何か才能があるわけでもない。何一つ、人とすぐれたところはないしただ卑下するのはよくないってわかってる。
自分には何もない。それは確かだ。
ただ、きれいなものは好きなんだよ。美しいと思う心はあるんだ。

「お父さんだったら何て言うかな」
ぽつりとおとわは漏らした。同じようなことを岡山の年取った祖母も口をもぐもぐ噛みながらもらして、母は、そりゃあ喜ぶわよ、とか何とか言っていたような気がする。
おとわにはわからない。わからないけど、お父さんだったらそんなことしなかった。急き立てて焦らせるようなことしなかった。
お母さんはいつも先走る。それをちょっと待てよ、あわてるなよって止めてくれるのがお父さんだった。どうして母から、わたしから離れていなくなってしまったんだろう。

お父さん、その人はまるで全く違うタイプだったんだよ。知ってるでしょ。ずっと私が好きだった人のこと。無口っていうところが唯一の共通点ではあるけれども、姿かたちも違うし性格も違う。晃一さんは割と神経質っぽいところもちょっとあって、それが絵から離れるとただもうぼーっとして何も見てないの。絵以外は本当に何も見えない。絵を描くこと以外のことに関しては鈍感と言ってもいいぐらいの人だった。

そのお見合いした人、伊笹さんていうんだけど、その人はすぐわかっちゃう。確かに無口だけどびっくりするほどよく回りを見てるの。見られてるっていう感覚がする。それに対して何を言うわけでもなくただ黙ってる。
その時、その場にいた人たちがけんかをはじめたの。口論?声が高くなって、周りが緊張した。
伊笹さんがふっと動いた。そしたらね場の色が変わるんだよ。不思議な感じ。割と周囲も感じてて、あんまり喋らないのに、ほかにも喋らない子はいるのに、なぜか中心になっている。そんな不思議な人だったんだよね。
それが特に嫌じゃなかった。
誰かがなにか壊したり、へまをしてピリッとした空気が走っても、その人が無言でじっと見たり、すいませんて周りに先んじて店員さんを呼んだり(あっ、しゃべった、ってびっくりした)ちょっとお皿の位置を変えたり、割り込んだりするその動作で、ゆるやかな流れになっていくんだよね。
今までに見たことがないタイプで、わたし好印象だったんだ。

トンネル混じりの景色に合わせて目が動いた。右、左、右、左。目の前に浮かんではあっという間に過ぎ去って消えていく、ほとんど線とも化した景色と彼女の間にさえぎるように浮かぶのは、お見合いの席で会ってから二人きりになることもなく別れ、これまでほとんど一言も会話を交わしていない伊笹の顔ばかりだ。おばさんとおじさんの丁寧な説明を前にして、顔色一つ変えない、変わらないがおとわにはわかった。少しだけ距離を取って、一歩離れてこの騒動を他人事のようにじっと見ている。

こんなところに立ちすくんで頭も胸も重いのは、あのどうにも盛り上がらない静かな底知れない冷たさに怖気づいているからかもしれない。
この不思議な関係はお互いに否定をしないところから始まった。お見合いをしませんか。きちんとやりませんか。親御さんにご挨拶をさせてもらえませんか。顔合わせはやりましょう。
彼も否定しないし、彼女も否定しない。否定はしないが、何も語らないが、彼の目はじっとおとわの心臓の中に注がれている。何を考えているのか、何を思っているのか、試すように、見とおすように。
おとわはここにきて、彼のその視線の前に、自分がどこに連れて行かれようとしているのか、どこに行こうとしているのか、まるでわからなくなった。

新幹線の扉が鈍い音を立てて開き、新神戸、という字がまっすぐに音羽の胸を刺した。おとわの口が半開きになり、目が見ひらかれる。
ここだ。イベントやってるのは。
あの人がいる。

底知れない冷たさは自分の中にもある。それはもしかすると、諦めという名前かもしれなくて、音羽は、何かを、確かに、あきらめたはずだった。
その執着が何だったのか。あれほどいままで固執してきた胸の熱さ、血が湧きたつ鼓動、何もかも我を忘れて夢中になる、その時だけはああ、生きていると感じていたはず。

思い出せない。
何も思い出せないのだ。


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