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チェーホフ「犬を連れた奥さん」(再録)



家にあったチェーホフの全集の中で、中学生の時に最初に読んだのがこれ。
もっと桜の園とかを先に読めばよかったのかもしれないが、短編でサクサク読めるのが良かった。

奥さんが、まだ若い時にそれが当たり前~の流れで結婚した夫と、今頃になって距離感が微妙だなと感じている。
彼女は感じやすくて繊細な人で、夫はそういう所を全く理解しない。
心の隙間に、男は当然のように付け込む。

男の方の嫁さんも事務的で冷たくて、鈍いというより、現実的にすぎる。
詩情やこの世の美しさ、優しさを敏感に感じる心を持たない。
一時の遊びのつもりだった男の方に、はじめてたまらなく恋心が募る。

チェーホフはすごく皮肉っぽくて、第三者的な目線から描くから、こういう感じのどろどろ不倫がドライなんだけどかえって胸に迫るというか…。
名作たるゆえんです。

おそらく二人とも、世界に現実としてつなぎとめてくれる人が必要なんだと思われる。
けど、願っている。心からお互いを理解して愛し愛される美しさが存在することを。
現実に押しつぶされていくけれど。

この時代は、世界のどこもあまり自由な選択肢のもとの結婚はそれほどなかったと思われるので、不倫もわりと仕方ないこととして受け入れられていたように思う。

選択の自由がかえって寛容性をなくしたのだ。

しかし思うのは、わたしも個人の趣味ながらちまちま小説を書くことがある人間だが、そこでわりと浮気や不倫(特に男性がわからの)を想像したり描くことが多く、自分の中からこんなん出てくるのが驚きだなと思うことがある。

とにかく不倫は若い頃から絶対・断然・反対派で、不倫中の上司に飲み会で平気な顔して「離婚してから口説けって思います」と豪語して絶句されたりしてた人間だから。

創造の世界は自由!

私の中から出てくる不倫する男の気持ちや既婚者に傾いちゃう女性の気持ち。
それは現実に経験したとか、願望などとはまったく・全っ然、違っていて、むしろ、そうでない平穏な生活の中に、いつ降りかかってくるかもしれない災厄を、そうならないように戒めるという、そうあった時に少しでも平静を保てるよう注意しようという意図が働くというか…。

または、そうならざるを得なかった、という心の動きが必ずあるはずなので(そんな動きなどない人もいるんだろうけど)精神の機微を理解したい、追い詰めたくない、という気持ちが働いて、想像(妄想)をフル回転して、イメージの世界で疑似体験するというか。

それによって実生活で修正するというか可能性の芽をつむというか、(旦那を制限するのでなく、自分の甘えを反省する)そういう種類のもののような気がしている。

そこを現実と混同して、例えばの話だが小説や漫画を読んで、この人は不倫経験があるとかないとか、体験したとかしないとか、すごくよくあることなのだが、作者と作品を同一化する。
そういうのはもうもう、ちゃぶ台をひっくり返すぐらい筋違いもはなはだしいと言いたい。

(自分が言われたわけではなくて、とてもよく見かけるので)

トルストイだってアンナ・カレーニナを書いたりするわけでしょ。
あの時、トルストイはアンナになりきっていた。
「ボヴァリー夫人」がつるし上げられたとき、フローベールは「ボヴァリー夫人はわたしだ」と言った。

アンナの地獄、アンナの罪は、決してアンナが悪かったわけではなく、その苦しみはすべての人が、男性も含めて自分の中で追体験すべきなのであって、それで、あれほどトルストイは時代も国境も超えて指示されているんじゃないだろうか。


(2019年2月5日 エキサイトブログ再録)

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