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奇禍に遭う 新宿編 5(中編小説)



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「すみません」

北村は頭を下げ続けたが、それ以外の台詞はほとんど何も言わなかった。
安易にクリーニング代については後日お話させて頂きます、なんてうっかり言ってしまったらあとが大変だ。
相手は苛立った。

「お前じゃ話にならねえわ、社名教えろ。名刺出せ」

反射的に上着のポケットに手を当てたが、上着もカバンも吐瀉物にまみれたのを呉に押し付けたままだった。

「ありません」
「はあ?何言ってんの?持ってないわけないだろ」

この暑いのにクールビズは着ない北村の、律儀に付けたネクタイを引きちぎりかねない仕草で男は詰め寄って来る。

「さっき上着もカバンも汚れてしまって、下に持って行ってしまったんで本当にないんですよ」
「どこの会社だよ。会社名言え。お前じゃ話にならねえ。上司に話す」

答えなかった。
自社名を出して連絡でも行けば、取引先に迷惑がかかる。
ここで、自分の胸一つまでで治めなければ。

「いや、それは僕の電話番号をお教えしますよ。今、ここで!」
「そんなん信用できるか?お前が電話に出なきゃそれまでだろ。留守電だって何だって、知りませんでしたーで通しゃ何とでもなる」

苦し紛れも通じる様子がなく、汗が噴き出てきた。
アルコール一滴も口に入れてはいないのに皮膚から酔いそうだ。ふわふわと床を踏む実感がない。

北村の方が背は高いから男を見下ろすような形になっている。
わずかな優位性といえばたったそれだけだ。

「さっきの奴、お前のこと別会社だから関係ないとか言ってたな。じゃあ吐いた奴の会社はどこだ。それを言え。連絡する」
「こちらが悪いのは重々承知してるんでそれは本当に申し訳ありません」

あくまで低姿勢に、それだけを繰り返した。
携帯のバイブ音が腰の辺りでさっきからひっきりなしに鳴り続けている。
下で北村が降りてこないから騒ぎになっているようだ。

こんな状態で電話に出るわけにもいかない。手は吐瀉物でべとべとだ。
腰をかがめ、手をあわせて頭を下げることを繰り返した。
それしか出来ない。挑発に乗せられてもまずい。

「僕らがやったことなんで、いくらでも説明します。どうぞ警察を呼んで下さいよ。そこで全部説明します」

男は歪んだ嫌な笑い方をした。

「何言ってる。警察なんてこんなん相手にするか、民事不介入で相手にされないに決まってる」

慣れてんなあ、こいつ。
圧倒的に分が悪い。だからといって引く訳にはいかない。


*  *  *


幸か不幸か名刺を持っていなかった。
うちの会社の名前も出せない。取引先の名前を出すわけにはいかない。

ここはひたすら謝るしかない。
頭を下げ続ける。口は割らない。
これしかない。

エレベーターが再度開き、客かと思って避けようとする。
瀬尾部長だった。
今度は瀬尾部長が北村の前に立ちふさがるように出て、店長は気おされて数歩下がった。
凄みなどきかせなくとも、もとからクリアで音質のいい声だ。
男の目をまっすぐ見て深く礼をする。

「すみません、吐いたのはうちの部下なんです。これどうぞ、私は営業部長の瀬尾と申します。名刺をお渡ししますので事後必ず、こちらから連絡させて頂きます。クリーニングも必ずさせて頂きます」

ここまで流れるような一息だった。
相手が声を出す隙を与えない。

「どうも、申し訳ございませんでした」

取引先は、北村の所よりもこの界隈ではちょっとは名の知れた会社だ。むろん立派な弁護士もがっちり付いている。
名刺を眺める男の態度がふっと変わった。

「わかった」

じゃあ帰れ、とそれが放免の合図で、北村は瀬尾部長と共にエレベーター内でもう一度頭を下げた。

頭をゆっくり上げると閉まる扉の隙間から、男は腕組みをしたままはっきり北村の顔だけをひたと見ていた。
北村も見返した。

反抗的な顔つきをしたわけではないけれど、ガラスのように硬いまなざしになっていることが自分でもわかる。
相手もこれ以上粘着するつもりもなく、冷たい石にも似た視線の中に一歩も引かない相手との押し問答に落とし所を探しながら、退屈な長い夜をちらっと遊んでやったよという光がきらめいている。
あんまり面白くなかったよ。

足元の崖はもう、消えている。

「北村さん!」

皆がどっと集まってきた。

「二百万払えって言われてましたよね…大丈夫だったんですか?恐喝されてません?おかね払っちゃったりしませんでしたよね?」

コンビニを探してティッシュや水を用意し、休ませていたのでばらばらになってしまったのだ。合流するのに時間がかかり、それから北村がいないことに気が付いた。ドラッグストアに走った者もいた。

よう子さんとみらいさんも、青い顔で北村を見上げていた。
二人とも胃から出しきって水を飲み、少し意識を取り戻しているようだった。

「すみません北村くん。大変なことに…」

よう子さんが蚊の鳴くような声で謝りながらこちらを見上げたが、頭が上がりきらない。

「そんな、大丈夫ですよ。何も払っちゃったりなんてしてないですし」
「変な店だった」

呉が階上を見上げて言う。
不思議なことに電気がついている気配もなく看板も出ていなかった。
瀬尾さんが北村の背中に手を置いた。

「あとはこちらで引き受けます。北村くん本当にすまないね」
「いや、僕の応対がまずかったんだと思うので気にしないでください」

まだふわふわと雲を踏むような足取りはそのままだが、臭気にはもう鼻が慣れて感じなくなっていた。
駅の方向から声がして、みらいさんのご主人が駆け寄ってくる。
ほっとして、北村はそっと見えないよう胸ポケットから汚れたハンカチを抜き、コンビニのゴミ箱に始末する。

切り抜けた。
それだけを胸に残して。

呉がカバンと上着を渡してくれた。
コンビニで購入したウェットティッシュで可能な限りふき取っていてくれたのに感謝する。



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