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思いやりを、諦めた日。

※10分間で書く、下書き・推敲なしのぶっつけ本番エッセイ。毎日更新107日目※

たぶん、もう10年くらいは経つと思う。わたしが、「思いやり」を諦めてから。

きっかけはなんだったのか、もう覚えてない。ただ、高校の部活で人間関係のトラブルになったとき、すでに「思いやり」は諦めていた。「考えてもわからないことは考えない」と、そう割り切っていたから。

思いやりってつまり、「相手の気持ちを推し量ること」。こうしたら嫌だろうな、だからやめよう。こうしたら喜んでくれるだろう、だからやろう。そうやって、相手の気持ちを推し量り、その期待に沿うことが「思いやり」。

でもわたしはもう10年以上、そういう意味での思いやりを放棄している。だって、他人の気持ちなんてわからないもの。

たとえば電車で、ヘルプマークを見るとするじゃない。あ、この人はなにか事情があるんだなって察するじゃない。

で、どうする?

それだけじゃ、どんな配慮を求めているのか、そもそも配慮が必要なのかすらわからないよね。電車で席を譲るって言っても、たとえば言葉を話せない人に席を譲るという配慮が必要なのか、と言われれば、それは人と場合によるものね。

わからないんだよ、考えるだけじゃ。他人の心のうちなんて。

だからさ、もう、考えるのやめたの。どう思ってるかって考えても、答えは出ない。1年後の天気予報について悩むのと同じよ。考えたって、わかんないの。わかんないなら考えても無駄なの。

「無駄」と言い切ると語弊があるかもしれない。でも他人の気持ちに思いを巡らすのって、すごく消耗する。そのうえ答えが出ないんだから、もう疲れるだけだよね。

それでも当然「こうかな」「どうだろう」って考えちゃうけどさ。でもある程度のところで、「ま、考えてもわかんないし!」って諦めることにしてる。

だって、伝えたいことがあれば伝えてくるでしょう? 伝えてこないってことは、こっちだって考える必要ないんだよ、きっと。伝えられないことまで全部考えてたら、頭の中がパンクしちゃうから。

悪いことをしました。謝りました。「もういいよ」と言われました。

相手はまだ怒ってるかもしれない。でも、そう考えたってしょうがないでしょ。「もういいよ」と言われたのに、それ以上相手の気持ちを考えても、どうにもならないでしょ。怒ってるなら、「怒ってる」って言えばいいんだから。

って、そう考えるようになった。

他人の気持ちなんてわからないもの。言いたいことがあれば伝えればいいんだもの。伝えないなら考えなくていい。もう、わたしはそれでいーや。あれこれと深く考えて、モヤモヤして、疲れるのは、もうたくさんだから。

人によっては「冷たい」のかもしれない。でも考えてわからないことは、考えない。自分のこころのために、基本的にそれでいいと思ってる。ただ、だからといって他人にどんな思いをさせてもいいってわけじゃないけど。

じゃあ、またあしたね。

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