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明日へ向かって 31

 四人の中で定職に就いているのは、啓大とアキラだけだった。テツオとジェイはいくつかのバイトを掛け持ちしていた。テツオとジェイは昼間同じ楽器屋で働き、たまに不定期で人材派遣の日雇いに精を出していた。アキラは工場に勤務する正社員で夜勤もたまにあったが、シフトはあらかじめ決められていて残業も少なかった。高津製薬の研究所に勤める啓大が四人の中で一番時間的融通が利かなかった。それが啓大にとって負い目にもなっていた。
「啓大の作るリフがうちの命だから」そう言うテツオの言葉は、啓大にとって一番の励みになった。リフとは、曲の土台となるコード進行、伴奏パターンの繰り返し(リフレイン)ことである。
 啓大かテツオがギターでリフを作ってくるところからモスキートーンの曲作りは始まる。それにテツオがメロディーと歌詞を乗せる。ベースとドラムのリズム隊はスタジオでジャムを繰り返しながら作り込んでいく。何もないところから自分たちだけの音が立ち上がってくるときの高揚感は、他ではちょっと味わえない。
「マジで、バリアツイんやから。一度聴いてみ」アキラがごひいきバンドに熱弁を奮っていた。バリアツイというのは、彼の口癖だった。
「それよりさ、こないだすんげえエロいサイト見つけたんよ」ジェイがいつもの調子でアキラの話の腰を折った。
 ややふてくされたアキラが、さっとポテチの袋を取り上げ、袋を逆さ向きに口に持っていってバサバサとポテチを流し込んだ。すかさずポテチの袋をジェイが横からパンとスティックで叩いた。
「こんにゃろう!」顔面と髪、肩までポテチにまみれたアキラの姿を見て、テツオと啓大は顔を見合わせて吹いた。
「欲張るからそんなことになるねや」ジェイがざまあみろとばかりに笑い飛ばす。
「そやかてこれ俺の晩ご飯やって」
「もうええやんけ」テツオのかけ声に啓大がポテチの袋を奪った。
 モスキートーンというバンド名になったのは、啓大のたわいもない話が発端だった。モスキートーンとは二十歳前後までの若者にしか聞こえない蚊の羽音のような不快音のことである。元々はコンビニにたむろする若者を追い払う目的などで使われていたが、それを逆手に取って携帯電話の着信音に利用されていた。啓大の大学でも授業中に先生に気付かれずに携帯電話を取れるとモスキートーンの着信音は流行った。それを聞いたテツオが、若者にしか聞こえない音っていいな、とそのままそれがバンド名になった。若者たちにしか分からない音で、若者たちだけへのメッセージを贈ろう。バンド名が決まった日、彼らは夜通し語り合った。
 自分たちのライブの前に実際のモスキートーンを流して始まりの合図にしていたこともあったが、いまではそれも使っていなかった。肝心の彼らが、モスキートーンは聞こえなくなっていたからだ。気付けばバンド歴も八年になっていた。地元ではすっかり馴染みのインディーズバンドだったが、関西を出れば彼らのことを知る者はほとんどいなかった。だが、そんなことは関係なかった。彼らは彼ららしく彼らの音を奏でていれば、それでご機嫌だった。それはどこにいたとしても変わらなかった。

「啓大の会社、結構マスコミに叩かれてるな」
 テツオがふとそう漏らしたのは、ライブを終えた打ち上げの居酒屋だった。
「ああ、あれな、正確にはまだ合併前だけどな」
「でも、よく分かんねえけど、ああゆうのって会社にとっては結構な痛手なんだろう」
「そりゃあなあ、何でも合併の話も一瞬飛びかけたって噂もあるくらいやからなあ」
「まあ、啓大の会社が潰れるってことはないだろうけどさ」
「もしそうなったら、一日中リフ作ってやるよ」
 啓大が言うとテツオが口を開けて笑った。

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