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明日へ向かって 74

 多喜田はひとり大阪ラボを後にし、淀屋橋の本社へ戻るタクシーの中にいた。
 研究所の閉鎖と新たな組織の統合と同時に早期退職者が募られる。人員の整理も進められるだろう。それはまるで、組織の手術のようであった。これから俺も従業員みんなと同じ手術台に上ることになる。
 多喜田は父亡き後に残された手紙を、母がひとりひとりに手渡していったことを思い出していた。
 投函できるように切手が貼ってあったにも関わらず、母はひとりひとりに父の手紙を手渡すために訪ね歩いた。
 母から手紙を受け取ると皆が受け取った封筒をその場でちぎって開けた。そして目に涙を浮かべながら、端正込めて書かれた便箋一枚の父の字に集中した。それからその短い手紙にゆっくり目を通し、小さく二度三度頷くと、手紙に向かって、ありがとう、と言ってほほ笑んだ。
 不思議に思ったのは、手紙を受け取ったときには涙を浮かべていた者も、手紙を読み終えると必ず笑みを浮かべたことだった。
 父がまさにひとりひとりに向かって最期に届けた言葉は、短くはあったが、涙を笑顔に変えてひとを前に向かわせる強い力があった。それがいかにも父らしい、最期の仕事だと多喜田は思った。
 自分にも父と同じような仕事ができるだろうか。彼は父にあやかりたい気持ちでいっぱいだった。
 大阪の薬物動態研究所閉鎖は、多くの研究員たちの生活に混乱を与えるだろう。大規模な組織改革を終えたとき、研究員ひとりひとりがハッピーであることなど、到底あり得ないのかもしれない。だが、その中でも、組織が前を向いて進むためには、研究員たちひとりひとりが新たな出発に向けて旅立たなくてはならない。旅立ちの後、ひとりでも多くの研究員に笑顔がもたらされることを、多喜田は密かに、しかし力強く心の底から願っていた。

 希美は、午後の実験をやり終えて、ひとりトイレにこもっていた。
 午後に知らされた研究所閉鎖について、長原からも榎本からも何らか説明がなされたわけではなかったが、研究所閉鎖とともに契約が終了するに違いないと思った。
 突然訪れた知らせに、希美はいまだショックから立ち直れずにいた。本当は、いつ訪れてもおかしくなかったのだが、こんな急に終わりを告げられるとは。
 それはあたかも、目の前にある吊り橋が崖の下へと切り落とされたかのような絶望であった。
 むしろこれまでがよく出来過ぎていたのだ。希美はそのように考えた。何の経験もない私を拾ってくれ、大好きな実験と分析をして医薬品研究のお手伝いをすることができた。その上、風土改革活動にも関わることができた。多喜田本部長に説明したときにも感謝の気持ちを感じたではないか。すべては出来過ぎた夢だったのだ。短い間だったが、本来の現実の私に戻るときがようやくきたのだ。
 そう思うと、目の前にあるトイレの壁が滲んで見えた。
 トイレの扉の開く音がして、続いて、失礼します、と麗しい女性の声が聞こえた。
 そのままつかつかと奥へ向かう足音。奥の掃除用具入れのドアの開く音がし、道具が触れ合う音がカチャカチャと響いた。
 その音に合わせるように、聞き憶えのある歌声が聞こえてきた。希美はさっと顔を上げると目頭をハンカチで軽く押さえてしばらくその歌声に耳を傾けていた。

 啓大の話を聞き終えて最初に口を開いたのはジェイだった。
「静岡って、東京から遠いんだっけ?」
「そりゃあなあ、大阪よりは近いけど」
 それがどうした、とでも言うようにアキラがそれに応じた。
「そっか」そう言ったきり、ジェイは黙ってしまった。
「静岡への異動っていつから?」
 テツオだった。
「まだはっきり分からないけど、たぶんいまから半年か長くても一年じゃないかな」
 正式な発表はまだだったが、周囲のもっぱらの噂であった。
「なるほど、じゃあ、もう少し時間はあるってわけだ」
 テツオが言った。テツオの言わんとすることが、啓大には何となく分かった。静岡への異動までの猶予期間に白黒はっきりつけたらいいということだろう。
 啓大も同じようなことを考えていた。
 そんな二人の気持ちは、瞬く間に残りの二人にも伝わった。
 それぞれが黙って持ち場に戻ると、ジェイが打ち鳴らしたスティックのカウントとともに、今晩の仕上げにかかった。もう一巡セットリストをこなすつもりだった。
 スタジオ練習に季節感はない。なぜなら、彼らはいつもTシャツ一枚で汗を振り巻いて演奏を繰り返すのだから。

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