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明日へ向かって 94(残りあと6話)

 年末の休みは姉由梨の家族とともに過ごしていた。食卓が賑やかに彩られるとすっかり年末らしくなった。
「希美ちゃんの会社っていろいろたいへんそうだね」浩志が言った。
 合併後は、メイセンの薬害訴訟問題が取り上げられる度、紙面には高津三河製薬の名が大きく掲載される。新聞やテレビで自分の働いている会社の名前を目にすると一瞬ドキッとしてしまう。
「合併してからいろいろと変わりました。来年には大阪の研究所も移転するから、私また就職活動しなきゃなんないんです」
 無論、母香枝にはすでに話してあったが、由梨には初めてする話だった。またバカにされるかと思いきや、あんたもたいへんね、といつになくやさしい姉の言葉を聞いて、ひょっとすると母から話を聞いているのかもしれないと希美は邪推した。
「大丈夫、希美ちゃんならまたいいところ見つかると思うよ」浩志の言葉が励みになった。
「あんた、ちょっとしっかりしてきたわね。それでようやく半人前ってとこかもしれないけど」
 由梨の発言に希美は驚いて目を見開いた。姉が私を褒めるなんて一体何年ぶりのことだろう。希美の描いた絵がコンクールに出展されたとき?進学校の受験に合格したとき?いずれにせよ遥か遠い記憶の彼方だった。
 由梨の隣で浩志も一緒に頷いている。一体、私の何が変わったというのか。自分では何も分からない。
 たしかにいまはひとりで実験もできるし、測定装置だって大抵のことはほとんど操作できた。簡単なメンテナンスなら首尾よく行うことだってできた。
 ただ、それがしっかりしてきたということとはちょっと違うような気がした。
「言葉遣い?それとも表情かなあ?」
 由梨はまるでクイズのヒントでも探るように、じろじろと希美の顔を眺めた。そうやってひとからまじまじと覗き込まれるとたとえそれが姉であっても緊張した。
「落ち着いたというか、何か自信がついたんじゃない?」浩志からそう言われても、ピンとこなかった。
「分かった。あんた、ちゃんと他人の目を見て話すようになった」
 由梨の一言に、浩志も、ああ、それか、と同意した。
「たぶん、いろんなひとに会って話をしたんだね。話しぶりがとてもよくなった」
 そうか、それはあるかもしれない。ひとと話すのが上手くなったとは思わない。ただ少しだけひとと話すのが楽しくなったのだ。
 ひとの話を聞くことは以前から好きだったが、いまは少しだけひととの対話を楽しめる心の余裕ができたといってよかった。
 そのとき、希美の頭の中にあることがひらめいた。それはありのままの気持ちを表した言葉だった。一度ひらめくともう書き出さずにはおれなかった。
「ありがとう」
 そう言い捨てると、希美は食卓を立ち上がり、部屋へと駆け込んでいった。希美の慌てぶりを見たみんなの笑い声が希美の部屋まで追いかけてきた。

 年明け早々、年末に書き上げたコラムの文章を榎本に見せた。
 すごいよく書けてるじゃないか、それが榎本の第一声だった。
 自分の言葉で原稿を書き終えたとき、希美はこのコラムを自分の名前で掲載することを心に決めた。そうでなければならない内容だった。
 これはわたし自身で語られた言葉だと希美は思った。すぐに多喜田さんにも見てもらうよ、と言った後、榎本は言いにくそうに次の一言を漏らした。
「何というか少し寂しいな」
「でも、本当に言いたいことが書けました」
 それを聞いた榎本は、そうだよな、と寂しげな笑みを浮かべ、来るべき退職の時期について話し始めた。
 三月いっぱいで希美の契約は終了となる。それは、大阪の薬物動態研究所が静岡研究所に統合が完了するのとほぼ同時だった。
 すまないといった様子で、榎本が頭を下げた。だが、こればかりはどうしようもない。そのことは希美にも十分すぎるほど分かっていた。

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