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なぜ同じものを作る=量産することが苦しいのか考えてみた〜私のケース〜


お久しぶりです。森口です。
何かしらの作家さんやオリジナルのものを自身で制作して売っている方だと、必ずといっていいほど、このテーマの悩みをよく聞きます。
今回自分はなぜそう思うのかを掘り下げてみました。

どんな想いや目的で作っているのかというのは、人によって色々だと思います。
自分の作ったものを広めたい、売っている方でたくさんの人に量産して同じ商品を売っている方もいらっしゃると思います。
このスタンスは私はとっていませんが、出店したり、売る場合のコストや手間を考えていくと多くの人がこの壁に当たったりすると思います。

同じものを作るにしても自分で作らなければ量産しても平気な人もいれば、同じものを何個も無尽蔵につくることに消耗感を覚える人もいます(私)。
それはなぜなのか?

私の場合は、1番最初に作ったもの=0から1を作ったときに経験した特別な想いや経験が量産することによってどんどん薄まり、自分の中で価値が低くなっていくような感覚になるからでした。
そんな感覚にならない人もいると思うけど、私はそういう寂しさに似たような感覚があったので全く同じものを作ることに未だに抵抗があります。
作れるけど、進んでは作っておらず、要望があれば作ります。



そこからさらに考えを進めます。
量産するとどんなことが起こるかというと、
一度作ったものを次に作る場合は、それ以降のコストを考えるので
制作するプロセスを簡易化する、分ける、いらない無駄な工程は捨てる。
といったことを考え始めます。場合によって順序が逆になったり、人に任せたりといったことも出てきます。
そこで何が失われるかというと「作品のストーリー」が失われます。
一つのものができるプロセスは無駄もあれば失敗もあって、1つのハーモニーであり、それを含めての作品なのです(私にとっては)。

私が感じていた寂しさは目の前で0から1が生まれそこに立ち会っていた自分のストーリーを分解し、切り売りする消耗感なのでした。
その瞬間にしか作れないものは、もう二度と再現できないので、
簡易化したり効率化した作品というのは見た目は同じでも、もうそこに命はなくて、部品をバラバラにして再構築した人造人間のようなそんな感覚なのです。

こうして話していて今気づいたのは、自分にとって作品と商品を分かつものはその瞬間に命が吹き込まれたただ1つのものかどうかなのかなとふと思いました。
商品やサービスとはあくまで人の悩みを解決したり、人や社会を幸せにするための道具であり手段だと思います。
ですので時代やタイミングによって必要になったり不必要になったりする。
なので日々事業を作ったり、改善したり、お客さんにそれを還元するためにコストカットしたりする。ゴールはお客さんの利益や幸せです。

でも、作品というのは全く別ものです
人を幸せにもするかもしれないけど、そのために生まれてきたわけではない。完全ではなくても、それ単体で一つの世界が出来上がっているもの
私の中では、そんな生き物を扱うような感覚に近く、だからこそもしそれが他人の手に渡るのならばその作品に必要な人に出会い、必要な場所におさまって欲しいという感覚があります。

これまで私はセミオーダーをベースにジュエリーを一点一点制作していましたが、このところ完全な1点ものやジュエリーの制作プロセスに関わらずいろいろな作品を作りたいと思い始めたのはそういった苦しさを抱えてきたからだと思います。
こういった私のマインドは商売人のマインドではないと思います。
何かを作ることが自分にとってどういった行為なのか。
商売の手段なのか、職人としての技なのか、アーティストしての生き方なのかはたまた、何かちがう意味をもっているのか?
こういったことをいつの間にか忘れて目の前のことで流してしまいがちなのですが、
何のために目の前のことをしてるのか?
コミットしきれない違和感はなんなのか?

流さず点検する心がけは忘れたくないものです。

machiko




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