受容と共感

「わかるよ」という言葉が私は大嫌いだ。

あんたに私の何がわかるんだよ、と捻くれた感情が込み上げてくる。

「気持ちはわかるけど、頑張れ」なんて言われたら、もう死んでしまいたくなる。

折角話を聞いてくれているのに、相手は悪気を持っていないことはわかるのに、嫌だという気持ちになってしまう。

私には昔からたくさんの生きづらさがあった。

でもそれを全面的に出して、悲劇のヒロインを演じるのは、気持ちが悪いと思った。周りに嫌われると思った。

そう思って、強く生きてきた。歪んだ環境かもしれないけど、真っ直ぐ、真っ直ぐ生きてきたつもり。

勉強も、部活も、遊びも、全部一生懸命頑張ってきた。

でも、突然張り詰めていた糸が切れたように、弱い人間になった。

私の周りで、たくさん悲しいことが起きたから。

自分の努力や我慢ではどうにもならないことだった。

頑張って思い出さないようにしても無理だし、勝手に涙が出てくる。今もそう。

そんな時、誰かに相談する、ということを覚えた。

私は何でも1人で頑張るのが美徳だと思っていた。

でもそれは違った。

誰かに相談すると、私の話をただ、「うん、うん」と聞いてくれた。

聞いてくれるだけでよかった。

ある時、1人の大人の人が、「人を頼れるようになったことも成長なんじゃない?」と言ってくれた。

すごい泣いた。嬉しかった。

悲劇のヒロインになってもいいんだ、つらいことはつらいって言っていいんじゃないかって思えた。

他人の気持ちをわかろうとすることは、もちろん大事だし、自分がもしその環境に置かれたらどう感じるかなって、考えることも大事。

でも、実際感じ方は人それぞれだし、実際なってみないとわからない。

私より辛い思いをしてる人はたくさんいると思う。

いや、心のキャパも違うし、辛さの感じ方も違うのに、辛さを比べるのはナンセンスだ。

だから私は、「わかるよ」という言葉が嫌いだ。

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