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新年明けて思うこと

言葉は難しいと最近より思う。


誉めてるように見せて、蔑んだり、小馬鹿にしてるようで本心は違うことを表現しようとしていたり。

こういうことを考え出すとどんどんドツボにはまっていくし、そこまで大方の人は考えずに言葉にして相手へ発している。

わたしの事を『賢い子』と形容する人がたまにいて下さる、とても有りがたいこと。

しかし本当に素直に認めてくれてその言葉を向けてくださる方と、前述したような意味合いで言う方がいる。
よくよく話を咀嚼していくと、回り回って

『賢いとはならないのでは?』と。

大抵は恋愛や男性との関係の話においてそういうことになる、
なぜ赤の他人に個人的な領域を踏み荒らされていちいち感情を揺れ動かさなければならないのかと毎回考える。


人の心地よさは人の数だけある。
人混みにいることが落ち着く人もいれば、誰もいないところが好きな人もいる。

流されて生きていくことが生きやすい人もいれば、自分の思いを尊重して生きていくことが幸せな人もいる。

『右ならえ右』を基本に、大勢が歩む道を踏み外す人は外道と言わんばかりの教育のもと躾られた風潮は理解が難しい。

そもそもが開示もしていない場所へ土足で踏入、勝手にこじ開けて、自身の理論を語るような人は自分の人生に本気で向き合ってないのだろう。
充実もしてないと思う。他人を諭してるような行為により、自分を肯定してる錯覚を抱いているのでは、と。


生きることに一生懸命で、どちらに行っても八方塞がりのような生き方を少しでもしたことがある人は、選ぶ言葉が違う。

思いやりによるのだと思う。

さらりと肯定しつつ、スパイス程度のアドバイスを加えて会話が終わる。


最近、長年に渡り、全面的に信頼をしていて、自分をさらけ出せていた場所が、もうそういった場所ではなくなったと痛感した。

それは若さ故に見えなかったものを炙り出す能力が年を重ねて見えてきたのか、その場所が変わってしまったのか、どちらかはわからない。

人との付き合いは対になっていつも進む。
片方が不協和音を感じれば、それは様々な事で相手に伝わる。

様々な人と会い、自問自答を重ねて日々人は形成されていく。

見える景色が変わらない人も粗方存在するのだろうけれど、私はそういった生き方は出来ないので日田すらに対峙し見つめ続けていく。

それ故に切れる縁もある。
それはごく自然なことだと思う。

そもそも人にあまり興味がない事につきるかもしれない。
冷たく、思いやりがないような印象を与えるのもそのせいだと思う。

それ故にもたらされる生きづらさも全て自分の個性なので、それも引き受けて迎合して頭の悪い人と絡むような人生は要してないので独りで孤高に見たい景色に近づければと思う。

ようは省エネで生きたいので、変なのと関わるくらいなら誰も来なくて良いです、というシンプルな話。

『選ばれるのではなくて選ぶべき人間だ』

それでいい。
自分を安売りしさんな。

個性があって素晴らしい、自分で誉められない人が日本人には数多くいます。それとと同時に自分の不快な気持ちも閉じ込めてしまう傾向も多く感じます。 私があなたの肯定感を高めるお手伝い、心の声を発掘するお手伝いをしたいと思います!!