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ある日、がんは雨雲のように訪れた。

2023年7月、東京の西新宿に建つ大学病院の病棟で、これを書き始めた。
特に何を伝えたいというわけではないが、いまを記録しておくことが必要に思えたので、思うままに書き留めている。

2023年3月22日(水)
WBC決勝をAmazonプライムで観ていた。

場所は、西新宿の大学病院の甲状腺外科の外来診療の待合室。
「ちょうどよかった、歓喜の涙だと説明がつく」
やっぱり日本人なら胴上げはするよね、とスマホの画面を眺めながら、目からは、ぽろぽろと涙がこぼれて落ちた。それは止まらなかった。

4年ほど前から経過観察していた甲状腺ポリープの一部。何度目かの細胞診の結果を、その直前に医師から聞いた。
ポリープの1つに乳頭がん。
もう1つに濾胞(ろほう)がんの疑い。
今までは細胞診の結果が曖昧だった、それがはっきり出てしまった。多少予測はしていたのに、医師に聞いた直後は他人事のようだった。
それがしばらくすると、ざわざわと心を揺らし始め、じわじわ、みちみち、頭上に重く広がる雨雲みたいに、暗ーく広がった。

とうとうジャッジが出てしまった。曖昧なら暫定「白」だったのに。
40にして不惑どころか、自分の許容量が思いの外小さいことにがっかりした。お前にはがっかりだよ。
でもこの瞬間が、仮にもう一度あったとしても、きっと心の準備なんてわたしにはできなかっただろう。

7月10日、手術のため入院した。

翌日が手術。前日から政治家の執務室のように、甲状腺外科、麻酔科、歯科の医師や看護師、レンタル寝巻き・タオルの業者さん、入院中の食事メニュー担当の方。続々と表敬訪問が続く。
その度に何度も「お名前と生年月日」を伝える。わたしの名前、本当にそんな名前でしたっけ、自信がなくなる。

こんなに受け身で過ごす1日は不思議だなと、のんびり過ごしていた。
主治医が来て「念の為の目印です、その通りに切るわけではないんですよ」わたしの首に、手術箇所をマーキングした。
謎のおしるし。
このおしるし、何かの映画で観た気がする。「わたしを探さないで」で臓器提供されるクローンの子たちの体に描かれたおしるしだったかな。思い出せない。
一気にSF感。おしるしの付いた体は、自分の所有物ではないように感じる。

わたしのおしるしを探さないで


7月11日、朝8時、手術室へのお迎えが来た。

おしるしがつき、真っ青な手術着を着たわたしに、道すがら看護師さんは色々話しかけてくれる。緊張をほぐす術を心得ているんだなと感じる。話すことは心を穏やかにする。余談として「この病院では1日に手術は何回あるんですか?」と聞いたら、「だいたい30回くらい」とのこと。多いような少ないような。
あっという間に手術台に寝かされた、おしるしの付いた身体から青い手術着が少しずらされて、心電図や点滴の針が通される。
麻酔が投与された。「徐々に眠くなりますよ」と言われ、ぎりぎりまでこの光景を眺めていようと目を開けるが、気がついたらもう病室に戻っていた。

意識が戻ったのは
正午過ぎ、ベッドの上だった。

首に違和感と痛みはあるが、さほどでもない。目が覚めると装備の多さに驚かされた。

口には酸素マスク。大袈裟な…と思ったが術後の回復に大事とのこと。
首の傷口には血液と体液を流すドレーンのチューブを装着。その先にはシリコンのボトル、旅行用シャンプーボトルみたい。
首と頭上には数個の冷却袋。とにかく傷口を冷やす必要があるそう、確かに身体中が少し暑い。
左手には点滴の針。時間によって抗生剤や鎮痛剤が追加される、水分も口からは翌朝まで摂取できないから点滴からとる。
膝から下は、事前に履いた着圧ソックス+圧を送り続けるマッサージ機。飛行機のロングフライト中なら気持ちいいかもしれないが、この小さくヴォーンと響く音はトラウマになりそう。
尿道からは膀胱に直接繋がったカテーテル+紙オムツを初めて装着した。尿意がかすかにあるような、ないような。自覚に無関係にずっと尿は出てくるらしい、垂れ流している自分が怖い。
水を飲めない口内は微熱のせいか、ねっとり気持ち悪い。訴えると水分をわずかに含ませた湿った太い綿棒で口内を丁寧に拭ってくれる、わずかな水分が命の水のように感じる。

目隠しのイラストのおかげでコミカルだが、フル装備で一番しんどい時


この日、私は、歩く自由、水を飲む自由、起き上がる自由、横を向く自由がない人になった。この状態で翌朝まで耐えるしか選択肢はない、と言う。

これが、とにかく想像の1万倍以上、辛い。

ただただ、わたしは天井の一点を見つめていた…なんて落ち着き払っている瞬間は僅かにもなかった。この状態で平静を保つなんて、常人にはできないと自覚した。
動かせる下半身を少し捻ったり、膝を上げてみたり。
高低がつけられるベッドを、足側だけ上げたり、頭部だけ上げてみたり(30度まで許容するという)。何をしても辛い。

もしも獣のように暴れたら、拘束服の可能性もあると術前に説明された。
ここは穏便に、大人として、人間としての理性を保つ方法を探す、または熟睡するしかない。
しかし、厄介なことに1時間ごとに看護師の体調のチェックがある。
血圧、体温、酸素飽和度、点滴と冷却装備の交換。結局、寝ても目が覚める、寝ても目が覚める、そして寝られない、寝られない、辛い、辛い。

心が乱れそうな時、唯一助けになるのは看護師との会話だった。
「どうですか?」「痛い?」「寝られない?」「こんばんは」
小さな言葉を交わすだけで、獣の心に人の心が宿る。
「動けない状況に、囚われてはだめなのよ」
哲学的な一言でわたしをなだめるベテラン風な看護師もいた。
声がけ、大事。どんな言葉でもいい。心からそう感じた。
今後も私はむやみやたらに声をかけよう、近所で煙たがられる「声がけおばさん」になって、みんなのざわついた心をなだめていきたいと心から思った。きっといつか誰かの心を落ち着かせる瞬間となるに違いない。

7月12日、朝6時に駄々をこねた。

朝が来た。とにかく起き上がってトイレに行く自由が欲しかった。
それだけを考えていた早朝5時半ごろ、少し腸が動き始めた気がした。もしかしたら便意が来るかも。
…あれ待てよ、もし来たらどうやる? 聞いてない。
看護師さんを呼ぶ。
「今ちょっとお腹が。もしかしたら大が出るかもしれないんですけど、その場合はトイレに?」
聞くと看護師は、少し困ったように
「今だと、お尻に差し込みの器具を入れてベッドですることになります」
今以上に尊厳を奪われる選択肢の提示だった。
「いやそれは…わたし自立でトイレ行く自信あります、全然大丈夫」
この仕事、わたしに任せてください。ここは譲れない。仕事のように冷静に。
「じゃあ、朝6時まで待てますか?そこで相談しましょう」
静かにただ時が過ぎるのを待つ。
そして6時。看護師は来ない。毎朝6時の看護師は作業開始で忙しいのだ。
ボタンで呼ぶと別の看護師が来てくれたが「あー、さし込みが嫌なんですよねー」もう一度交渉かと思ったところで、意外とすんなりと準備は始まった。
まずは膀胱カテーテルを抜いて、点滴やドレーンの管を整理してまとめて。

やっと、わたしが解放された。
7月12日、解放宣言。
この瞬間だけを待っていた。

歩き始めると、さほどふらつくこともなく、トイレへと無事に辿り着いた。本当は朝9時から自立歩行だったようで、約3時間の時短となった。

入院中、西加奈子さんの「くもをさがす」を読んだ

西さんは移住先のカナダで乳がんに罹患し、両乳房を全摘する。
その手術がなんと「日帰り」だと言う。
(傷口の排液ドレーンの処理は、コロナ禍で事前のzoomレクチャーだったそう。流石に手術後に再度教えてとお願いしたそうですが)
「えー、カナダすごいね!」と前述のベテラン風な看護師と情報交換した。日帰り手術は極端だとしても、日本はかなり慎重な術後のケアではあると思った。

術後翌朝のトイレを境に、口からの水分摂取も始まり、昼には五分粥も始まった。喉に少し詰まりはあるが、食事もなんでも食べられた。声の不調もほぼなかった。
歩くことはさほど辛くなく、その後もレントゲン検査も徒歩で行き、スイスイ歩いてデイルームに行ったり、病棟内をうろうろしてリハビリを動き始めた。
ただ同室で、その数日後に甲状腺手術した女子は、術後翌朝は車椅子移動をしていたので、わたしは特別元気な方かもしれない。
その後、7月14日には点滴の針も排液ドレーンも取れて、夜は4日ぶりにシャワーを浴びた。

7月16日、退院予定。


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