
老衰論 -①まえがき-
兼ねてより、自分の夢は「老衰」と公言しています。きっと、将来の夢は?という質問にまでは及ばずとも、いずれ必ず訪れる死について考えるとき、老衰を視野に自らの最期への理想を抱いてみたことがある人は少なくないと思います。
しかし、夢における老衰というのは、警察官やお花屋さん、大学生や小説家のように、あらゆる才能や努力、かき集められる限りの富や名誉を武器にしたとしても、到底立ち向かうことはできないものだと考えられています。言い換えると、「現実的で、自らの責任のもと叶えられる可能性がある」という類のものではないということです。
そもそも、夢は夢であり、「夢は?」に対するアンサーが“現実的に目指すことのできるもの”、“意図的に叶えられる可能性があるもの”などという決まりは一切無いのですが、やはり(特に大人がこれを抱く場合は)そのような通念があることは確かです。あるいは老衰を夢に掲げることは、子どもが拙く口にするような、「大きくなったら仮面ライダーになりたい」「プリキュアになりたい」という微笑ましい類の発言と似た捉え方をされるものなのかもしれません。
しかしわたしは数ヶ月前、わたしの所属するアイドルグループのメンバーが、ライブ中に正真正銘「プリキュア」となっていたのをこの目ではっきりと確認しました。これらもまた、政治家やお笑い芸人のように、本人の努力とポテンシャル次第で叶えられる可能性がじゅうぶんにあることを知ってしまったのです。
それならばやはり老衰は、他のあらゆる夢とは一線を画すことになっているのでしょうか。そうではないはずです。なぜなら、わたしたちが認識できる範囲で現実に老衰をしている人はたしかに存在していて(わたしの曾祖母含め)、その人たちが生前、老衰を夢として掲げていた可能性が当然あるからです。
しかし、ここで大きな問題が立ちはだかることになります。これまで仮に老衰という夢を完遂することができた人がいたとして、なんと、その人たちはみんなこぞって既に死んでしまっているのです。
これは些か衝撃的ですが、変えられない事実なので仕方がありません。
このことは、老衰を将来の夢として公言する際に少なからず伴う不鮮明さと、まわりの人へもたらす印象のリスクにも繋がり得ます。「よくわかんないけど、なんかそうやって言ってみたいだけの人」などと思われる可能性があるからです。
たしかに、もしもわたしがわたしではなかった場合、誰かに「夢は?」と聞き即座に「老衰です」という答えが返ってこれば、偽洒落臭ぇ!!(にせしゃらくせぇ!!)と思ってしまったかもしれません。
「夢」が「老衰」であることを真に本気で捉えてくれようとする他人はあまり存在しません。全く存在しないわけではありませんが、ほとんど存在しません。経験として、そうでした。
しかし、何度も言っているように老衰は夢として十分に掲げられるものだと考えています。将来の夢ランキングが開票されたとして、老衰という項目が圏外に置かれ度外視されてしまうのは避けたいものです。
先述の通り、老衰をすることができた人は全員死んでしまっていて、生きているわたしたちがその過程を伝授することは不可能なように思えます。しかし今回の『老衰論』は、独自のルートと模索法で「老衰が地に足のついた夢として掲げるに値するもの、自らの意思や努力で具現化へ向かうことのできるもの」、そしてさらにもう一段階踏み、「長生きをせずともできるもの」だということを以下の内容で綴ることを試みます。
①まえがき
②定義と経緯
③準備と手順
④欠点と利点
⑤老衰に適切な日
⑥経験者インタビュー
⑦老衰のあと
『老衰論』は、自らの純粋な老衰願望を宣し同じような願望を持つ人たちの指針になると同時に、「まあ死ぬのは決まってるし、だったらそりゃ老衰がいちばん良いか。」というような気持ちが起点となり読むものとしても、最適な手引きとなるはずです。
ところで、さきほどぬったりと登場した「生前」という言葉ですが、あれはいったい何なのでしょうか。もう死んでしまった人の「死ぬ前」をさす言葉であるのに、文字では「生まれる前」と書きます。生まれる前は、人は死んでいると思うので、それならば死んでいる時ということなのでしょうか。やはり、生きるとか死ぬとかには境界線がないのでしょうか。生前という言葉は、意味とセットで考えたときに適切な熟語か否か、未だ疑わしい部分があります。
少し話が脱線してしまいましたが、この疑問の中には本編の全体像に繋がる、本質的なヒントが隠されているような気がします。
まずはこの言葉を紐解きつつ、本文における「老衰」の概念について探っていきましょう。
それでは、いずれ死を迎えるすべての人に送る超死生観ポップを楽しんでいただければ幸いです。