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子育てパニック ダンマリ

 ドラマを見ていて「学べる」と感じるのは、
「監察医 朝顔」だ。
 前回は、つぐみちゃん役の子が極々自然体で、素晴らしい演技だった。だから、考えさせられてしまった。
  
 話はこうだ。
 ママが保育園に迎えに行くと、何やら友達と喧嘩をしたらしい。家に帰って聞くのだが「ダンマリ」を決め込んで、何も話さない。
 小さな子供には良くある事だ。我が家も小さな息子に「ダンマリ」を決め込まれて、イライラした真愛が怒鳴り
「もう。知らない!
 こんなに心配してるのに勝手にしなさい!」
と何度、息子を泣かせたことか。

 朝顔さんも普通のママさんなのが嬉しい。
 全く同じように子どもを心配して、まずは優しく問いかける。
「ダンマリ」
 子どもの思いに寄り添おうと努力するが
「ダンマリ」
 忙しさ故に心のゆとりがない母は、待てない
「何で、黙っているの?
 話してくれなきゃ分からないでしょ?」 
 語気を強めた母親に対して、
           泣き出す子ども。
 当然の帰結である。
 イライラしていて、訳が分からず泣かれたら、もっと腹が立つだろう。相手が愛しい子であっても…。
 
「ダンマリ」とは、子どもの言語が自分の想いに追いついて行けず、出てこない事だと思っていた。この歳になるまで何と愚かであった事か。
 彼女は、親の事を悪く言われ、言い返せず、いじめられた事を言わなかった「ダンマリ」だったのだ。
 真愛と母一人で育てられ、貧しかったし、皮膚が荒れていたので良くいじめられた。
「貧乏人 貧乏がうつる。」
「お父さんが居ない子は泥棒になる。」
 肌のことで「天然痘。」と叫ばれ、真愛の周りにいた人たちが、“さっ”と弾かれた水玉のように去っていった光景は、今でも夢で見る。
 全て、その場では泣けない事だった。
 しかし、泣いて帰れば、母が気にする。
「何で泣いたの。」
と問いただされる。
 真愛の肌の事を、母とお風呂に入っている時に聞いた事がある。
「あなたがお腹にいる時は、貧しくなっていて
 ね。栄養をとってあげる事ができなかった
 の。だからでしょうね。
 あなたにいろいろな病気が出てしまうのは、
 私のせい。ごめんね。」
と言って泣いた事がある。
 そんな母は、見たくなかったし、どう声をかけて良いか分からなかった。
 だから、母が泣くような事はしたくなかったし、言いたくなかった。
「ダンマリ」を決め込んで、怒鳴られた。
 兄の悪口を言われて、兄の同級生を側に突き落とした事もある。
 その時も「ダンマリ」を決め込んだ。
 中学生になって、友達から「お金を貸してくれた事にしてくれ」と頼まれた事がある。
 悪い事だとは分かっていた。だが、(この友達を逃したら、友達がいなくなる。用務員の子、貧乏人の子と付き合ってくれるのはこの子しかいない。)と思って嘘をついた。
 嘘は簡単にバレた。相手の親も友達を連れてきて母と私と、修羅場になった。
 結局は、真愛がその子の言いなりになったのがいけないと決着がついた。
 母に「何故そんな事をしたのか。」と問われ
「ダンマリ」しかなかった。
 用務員の子・片親の子の切なさなんて言えなかった。母は、「育てられない。」と言い線路に向かった。
 
 真愛の母親は、何度も親子心中を図っているが、失敗している。
 子ども二人を連れて、海に入ったが自分は泳ぎが得意で泳いでしまった。子供が溺れているのを見て、「生きなきゃ。」と考えたらしい。
 鉄道自殺も考えたらしい。
 人は苦しいとその苦しさから逃れるために
「死」を選べば「楽」になると考えるのだ。
 だが、母は「何時もあんた達に救われてた」と言った。「小さな命が必死で生きようとしているのに、殺せるなんてできない。」と。

 この嘘の時が、母に「死ぬ」と叫ばせた最後だと思う。
「もう、嘘はつきません。
    絶対につかないから、御免なさい。」
 大好きな母を失いたくはなかった。
真愛の「ダンマリ」は、「泣きながら話す」に変わった。

 ドラマ「監察医 朝顔」に戻そう。
 つぐみちゃんは、保育園でいじめに遭ったのだ。仙の浦から送って来たおまんじゅうを友達にあげようとしたら、
「要らない。病気がうつる。」
と言われたのだ。
 感染症のご遺体を解剖している親の子だから、「お前も病気だ。」とも言われたのだろう。
 言われのない差別だ。
 いじめだ。
 今、このコロナ禍で、沢山の医療関係者が差別を受けている。まさしく、今日の話である。
 子供には子どもの事情が有り、大人はそれを知らず「ダンマリ」に対して怒鳴ってしまう。
 つぐみちゃんもそうだったのだ。
 それも、ママを悲しませたくない「ダンマリ」だったのに、
「どうして。」「なぜ?」と問い詰めて、
「嫌い。」「いやだ。みんな嫌い。」
と答えさせ、
「いい加減にしなさい。」
と怒鳴ってしまった。理解できなかったのだ。

 子どもは子どもなりに母の事を思ってくれているのに、解ってあげられなかった自分を悔やむ。
 考えてみれば、真愛の息子は真愛の教えた学年の子と中学校で同級生になった。
 優しくて思いやりのある子もいるが、真愛に注意された事を根に持っている子もいた。
 そんな子に格好のいじめの対象にされた。
親の事を考えて、「我慢・我慢」の毎日だったのだろう。
 ある日、「先生の子供なのにプリン盗んで食っただろう。」と疑われ、(後で分かった事)そいつを殴り飛ばした。
 彼は、家に帰ってきて「ダンマリ」を決め込んだ。
学校を介してもらい、相手の親に謝ったが
「どんな育て方をしてるんだ。
 俺の息子は鼻を折ったんだ。
 お前の息子の鼻を折ってやる。
 息子を連れてこい。」
と電話が入った。
 厚洋さんは、
「分かった。息子の代わりに俺が殴られる。
 育て方が悪かったんだから。」
と答えた。
 お酒を飲んだ後の厚洋さんだったので、彼を車で送って行った。
 相手の親もしこたま飲んでいた。
 降りてしばらく話していたが、「来いよ!」
と言われて、厚洋さんとその親は中学校の裏庭の真っ暗な方に入って行った。

帰りの車で
「拓には、言うな。」
と言ったきり、二人は何も話さなかった。
 厚洋さんは、ただの子煩悩ではなく、男親として素晴らしい人であった。
 そして、妻の母親としての苦しみも理解し守ってくれる素晴らしい夫であったのだ。
  
 朝顔さんの旦那様も優しい。
 愛しい人を思いやる行動は人様々だが、人が人を思いやっている姿を見たり、思ったりするのは「こちらも幸せになる」
「ダンマリ」「嘘」
「抱きしめ」「犠牲・攻撃」
 全ての行為の中に隠れている「心」を見極めて、判断できる人間になりたいものだ。
が、いまだできない真愛である。



ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります