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 目に入れても痛くない可愛い孫の映像が届いた。Firsttime storyである。
 補助無しの自転車に🚲乗ってる!
 息子は幾つの時に、補助なしになったのだろうか、覚えていない。
 中学校の時には自転車に乗っていたからその前に乗っていたのだろうが、教えた記憶がない。
 この地区では、小学校の中学年には「交通安全教室」があって、自分の自転車を持って行く事があったのだから、小2年生あたりで厚洋さんが教えたのかもしれない。
 小2の頃は、おばあちゃんの家から学校に通っていたが、おばあちゃんは自転車に乗れない人だったので教える事はない。
 小学校の一年生までは一生懸命な親だったのに、2年生からは「放ったらかし!」のママだったので、真愛は教えていないと思う。
 自転車があったのだろうか?
 それすらも覚えていない困った母親である。

 そんな事を思いながら、孫のFirst Time動画を見ていると、面白い事に気づいた。

スタートである。

 初めての補助輪なし!
 片足で地面をしっかり蹴り、その足をペダルに乗せて次の一回転のために漕ぐのだ。

両足が離れる。

 大地から両足が離れると同時に腕の力が入ったのか、ハンドルが大きく揺れるが…。
   踏ん張って立て直す。
 目線は、自転車の下の大地を確かめる。

ハンドルが進行方向を向く。

 ハンドルが進行方向を向く。
 乗れているのだ!
 動画を撮っていたママが興奮して
「乗れた!」
って言う声に反応して、ママの方を見る。
 若干ふらつくが、バランスを立て直す感覚を掴んだのだ。

走っている。

 ちゃんと、補助輪なしで一人で走っている。
自転車に乗れたのだ。
 良く見るとさっきまで、大地に落としていた視線は、行く先を見つめている。
 要するに、できるという事は、前を見据えることができるという事なのだ。
 できるかな?出来ないかもと不安を抱いている時は、足元しか見ていない。
 先まで見通せないのだ。

見事に乗っている。

 見事に補助輪なしで自転車に乗っている孫の視線は「前を向いている」のだ。
 恐々とやっている事は皆動きが小さい。
 手元や足元を見るので精一杯なのだ。
 つい最近、三絃の発表会に出させて頂いたが、お師匠さんの視線は、「真っ直ぐに客席」に向かっている。
 隣で一生懸命に弾く真愛の視線は、
「手元の撥だったり、棹の勘所」を探って見ている。
 上手になればなるほど視線の先がどこを見るかで決まって来るのかもしれない。
 人生も同じだ。
 経験不足で、不安を抱えている者は、遠くを見渡す事はできない。
 遠くを見られないから、自分のことで精一杯になって、上手く進めない。

停止!

 見事に乗り切った可愛い孫は、しっかりと転ばずに下を向いて、大地を確かめ停止した。
 人生にとって「前を向く」ことの大事さなんて、まだ、考えもしない子どもである。
 しかし、視線を落として生きていては、前には進めない事を知らず知らずのうちに体験の中から学ぶのだと思う。

満開の桜

 満開の桜吹雪の中を誇らしげに走り、停止してから笑顔で母親の所に自転車を引っ張りながら走って行く。
 彼女は何を語ったのだろう。
 その喜びこそが、「幸せ」の言葉である。
 真愛も孫に負けず、「前を向いて」生きていきたいものである。

お茶を点てる?

 と書いた翌週に我が家に花見にやって来た。
「自転車に乗れて偉い!」と話すと喜んでいた。
 ママに話を聞くと
「私も拓も教えていないんです。
 後を押さえて…。なんてしてないんです。
 足でキックして乗っていたみたいです。
 気がついたら、乗れてました❣️」
と嬉しそうに話す。
 良い母親だと思う。
 子どもがやりたい事は危険がない程度で、やらせる。「やりたい!」という事は、ほとんど挑戦させているようだ。
 子どもが前を向いて生きていけるのは、誰かに支えられて、沢山の体験を通して強く強く漕ぎ出せるのかもしれない。

ありがとうございます。 愛しい亡き夫厚洋さんに育てられた妻「真愛」として、読み手が安らぐものが書ける様頑張ります