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ニッポンゴ場外乱闘

職場の休憩室に、博多通りもんの箱が置いてあった。蓋の部分にだれかの、お土産どす♡という丸っこい文字が書き残されている。

土産!
これをミヤゲと読ませる我が母語の強引さたるやまったくもって剛田武、この島国がならず者国家であることの純然たる証明ではないか。


名詞が活用しない日本語は、無秩序であることにとても寛容な言語だ。ひらがなカタカナ漢字、という3種類の組み合わせも、選択肢をさらに広げている。
きっと多くの日本語学習者が、その自由奔放さに頭を悩ませてきたことだろう。たとえば「生」という文字の読みはおよそ150種類あるといわれていて、そこにはなんの法則性もない。堪忍したってくれへんか。

幅が広いことに加えて、日本語というやつは不安定である。いま正しいといわれる言葉の意味や用途だって、それが生まれた時にもっていた定義からすっかり姿を変えたあとのものであることが多い。
貴ぶべき相手への敬意を表すために「貴様」とはじめに書いた人は、遥か未来にその言葉の表敬レベルが大暴落するとは想像もしていなかっただろう。


やっかいなことに、これだけ柔軟な言語であるにも関わらず、公に使用方法を誤るとすぐ、プライドの高いネイティブスピーカーが取り締まりにやってくる。
ら抜き言葉は教養の欠如、させていただくなんて敬語はない。雰囲気はふいんきじゃないし、重複はじゅうふくじゃない。

彼らの主張はたしかに「正しさ」には違いない。けれど、振りかざされる「正しさ」によって表現の肩身が狭くはならないだろうか。言葉の熟成を妨げてはいないだろうか。

間違いを指摘されるのは誰だって面倒なことで、それを避けるためには悲しいかな、口を閉ざすのがいちばん手っ取り早いのだ。
古き良き日本語を忘れないのは大切だけれど、そのルールが開かれるべき扉を重くしていないかな、と振り返ることも忘れたくない。

どうせ言語なんてほとんどノールールで、流動性が高いシロモノなのだ。

もっとめちゃくちゃでいい。気持ちのいいところに、気持ちいい言葉が置かれていれば、それでいい。
椎名林檎くらいあいまいな文法で、みうらじゅんくらいわがままに新語を作り、久保帯人くらい好きにふりがな振ってやろう。

こわがって喉が詰まるくらいなら意味なんて放り出して、リズムとか、ニュアンスとかで決めてしまって構わない。軽佻浮薄でなにが悪いのだ。


信じてみようぜ、この地球(ほし)の言語(コミュニケーション)に眠る能力(チカラ)ってやつをよ……

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