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なぜアナ雪に続編が必要だったのか〜エンタメを社会学〜

映画に評論はつきものだ。その映画の内容的良し悪しだけではなく、その映画が共感された社会的背景、その映画がそもそも生まれ出た社会的背景など評論の種類は多種多様である。

さて、今回の評論の切り口は映画の続編そのものについての評論ではなく、続編としてアナ雪2が生まれなければならなかった理由に関して考察していきたい。なぜこの少し風変わりな切り口で論じる必要があったのかは最後まで読んでいただければきっとわかるはずだ。(以下、ネタバレ注意)

1、なぜアナ雪に続編が必要だったのか

アナ雪2の公式のサブテーマは「なぜエルサに“力”が与えられたのか」というものであった。確かに、アナ雪1の方では雪の力を発現したエルサがその能力にどう向き合うかが描かれたが、その起源に関しては描かれなかった。伏線として残されている以上、それが気になるのはいたかたがないようにも見える。

だが、なぜ明らかにする必要があるのだろう。アナ雪1においてハッピーエンドを迎えたアナとエルサの物語はそれで閉幕でもよかったはずである。なぜあの物語は1で終わることができなかったのだろうか。

2、アナ雪1は個人論的物語

アナ雪1はエルサ個人にフォーカスした物語だったと私は思う。雪の力を発現してしまったエルサがいかにその力に向き合い折り合いをつけていくのかが終始描かれていた。この物語ではこうしたエルサの葛藤を通して「個人が自己の“個性”にいかに向き合うか」を伝えていたのではないかと私は考えている。

その向き合い方は大きく分けて3つ存在した。

⓪力は弱さになる

向き合い方の話に入る前に1つだけ前提に関して論じる必要がある。それは、そもそもエルサは何に向き合っていたのかである。エルサが持っていたのは雪の“力”である。力とは発揮するものであり、むしろその言葉だけ切り取るのならば強み=ポジティブなものと受け取ることもできそうだ。

しかし、アナ雪1では“力”とは良くないものとして認識されていた。それゆえ力は力ではなく隠さなければならない“弱さ”として立ち現れていたのである。

では、エルサはなぜ力を“弱さ”として認識しなければならなかったのだろうか。さらに言うならば、なぜ能力のコントロールをエルサ個人に委ねられねばならなかったのかを問う必要がある。確かに、雪の力によって他者を傷つけるという行為が発生したシーンが存在した。しかし、能力が発現してしまったあの場面で責められるべきはエルサ個人のみだったのだろうか。アナ雪1において終始欠落していた視点は環境=社会の視点だったと私は考える。アナ雪1の裏のテーマは社会のありようによって個人の“個性”は力=強さにもなりうるし弱さにもなり得ることを指し示していたのだろう。

➀弱さの抑圧(個人の抹消)

では、社会を問うことがゆるされない状況下において個人は自己の“弱さ”にどう向き合うのだろうか。

最初の“弱さ”に対して向き合い方は「抑圧」というものだった。自分の“弱さ”を危険で恥ずべきものと認識し、自室に引きこもることで社会に自己の“弱さ”が出現することを抑止したのである。この向き合い方は誰も傷付かない代わりに自己が押し殺されている感覚を永遠に抱え続けなければならなくなる。

➁弱さの克服(強い個人)

続いての向き合い方は弱さを「克服」するというものだった。外に出て自己の“弱さ”を社会に見せてしまったエルサが「ありの〜、ままの〜」と歌いながら山に城をつくっている段階がそれである。一見すると抑圧も克服も同じに見える。なぜなら、結局のところ一人引きこもる状態は変わらないからだ。

ではこの違いは何か、それは自己ではなく社会との関わり方にある。「抑圧」の状態は社会の中で社会を気にして自己を閉ざす方向に向かっていた。一方の「克服」の状態は社会の中で「抑圧」されている自分を脱して自分一人で生きて行く、自己を社会から抜け出す方向に向かっていった。社会から抜け出すことで気にするものは無くなる、すなわち自由を手にする一方で、代償として誰とも分かり合えない孤独を抱えることになる。

➂弱さの受容(弱い個人)

そして最終的に辿りついたのが弱さを「受容」する段階であった。「抑圧」の段階も「克服」の段階も弱さを持つ自分を否認する方向に向かっていった。前者は「弱い自分は消さなければならない」という方向へ、後者は「自分は弱くなんかない強い存在なんだ」という方向へである。弱さは自分の中にある以上、その部分を否定することはどこまで行っても自分を否定することになる。だからこそ「弱い自分も自分だ」ということを受け入れる「受容」の段階が重要になってくる。「どうしようもなく弱い自分はいる、けれどそんな自分もありながらも目の前の現実を生きて行くんだ。」そう思えて初めて社会の中で生きて行くことがエルサはできるようになったのである。

3、アナ雪2は社会論的物語

さて最初の問いに戻そうと思う。

最初の問いは「なぜアナ雪に続編が必要だったのか」である。上記の通り、弱さを「受容」したエルサは社会と折り合いをつけながら他者と共に生きて行くことができるようになった。一見するととてもハッピーエンドである。なぜ、ここで終わらせることができなかったのだろう。

長年すれ違っていたアナと和解し、国の女王になり何不自由ない幸福な生活がそこにはまっている。何も考えなければそれは永遠に続くはずだった。

だが、エルサは何者かに呼びかけられることになる。安定的で幸せな毎日だけれども、どこか違和感が顔を出したその時に「未知の旅へ出かけよ」と呼びかけられるのである。

話は変わるが、このように一見何不自由のない人生を送っているはずにもかかわらずどこからともなく違和感を覚えてしまう状況を社会学者の土井隆義は「高原社会」というキーワードを用いて説明している。

「伝統離脱が相当な程度まで進み、それにともなって生きる意味の空白化も進んできたからこそ、その反動として伝統回帰が始まり、したがって共同体への憧憬も強まっているという事実です。かけがえのない自分は誕生したものの、高原化によってその根拠を問わなければならなくなり、それにともなって存在論的不安が高じてきた」

エルサのこの状況は高度経済成長が終わり、全員が共有出来る目標、高山の頂上を目指す「登山」を終え、高所の広い平地に立たされどこに向かうべきか、正解がわからない現代の社会に立たされている我々を暗示しているのではないかと私は思う。そして、生きる意味がぼやけてきた時に私たちは問うのである、「私たちは一体何者なのだろうか」と。

結果的に、エルサの発した「私は何者であり、私にはなぜ力が与えられ、なぜかつての私は大きな葛藤を迫られたのか。」という問いに対する答えは私の中ではなく社会にまで広がっていく。

それはアナとエルサの住む国アレンデールと魔法の国であるノーサルドラの対立である。アナとエルサの祖父が「魔法は危険なものである。」という理由から魔法を司る自然をダムによって閉鎖し、争いを巻き起こしたことがエルサが能力を“持たなければならない理由”を形成し、そしてその能力が“抑制されなければならない理由”を形成していたのである。エルサが本当の意味でエルサとして存在するためには、エルサが能力を受容するかどうかだけではなく、ダムを壊すこと、国と国の対立を乗り越えることが必要になったわけである。

さて、このお話は“おとぎ話”だから生まれた観点なのだろうか。一般人として現実を生きる私たちにとって社会とは壮大なものであり、私がどうあるかに関係しないものなのだろうか。

私はそうは思わない。このアナ雪が続編として誕生し、そして続編に共感が生み出されるのは、きっと心のどこかで私たちの「生きる意味の求める先が、生きづらさの所以が」私の中だけでは収まらない社会と向き合う必要が生まれ出ていることを感じ取っているからではないだろうか。

4、個人論の終焉へ

私にはこのアナ雪2の登場は「個人論の終焉」を物語っているように思えてならないのである。

社会にとっての「正解」が失われた現代、誰もが方向性を指し示せない中で一旦は個人がその責任を引き受ける方向へと向かっていった。カウンセリングによって個人の生きづらさを個人が解消し、コーチングによって個人の行く先を個人自身が指し示せるようにし、マインドフルネスによって個人の生きづらさを個人が受容できるように向かっていったこの方向性はまさに、アナ雪1の個人の「ありのまま」の受容というテーマの指し示す方向だった。

それを極めた先に個人の受容があり、“幸福”な生活があったとしてそれでも満たされえない何かが顔をもたげ始めていた。個人論のピークである今だからこそ、アナ雪は続編が生み出され、その続編に共感が生まれたのだと私は思う。

自己分析も自己理解も限界にきている現代の社会においては、自己を探る中で社会へとつながる契機へと向かう方法が作り出される必要があるのではないかと私は思う。

それはきっと、カウンセリングでもコーチングでもマインドフルネスでもない別種の何かなのだろう。

さて、となると新たな疑問が生じてくる。それは「なぜアナ雪は2から始まるのではいけなかったのか」である。最初から社会に対してその眼差しを向ければ自分が葛藤することなく自分の存在理由と社会の変容をつくりだせたのではないだろうか。

だが、私はアナ雪は1と2というプロセスが必要だったと考えている。次回はその理由に関して論じていきたい。

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