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車窓を求めて旅をする⑭ 北辺の秘境駅 ~宗谷本線~

北辺の秘境駅 ~宗谷本線~

     宗谷本線(旭川~名寄)

 鉄道に関するニュースで、毎年春になると寂しい気持ちになることがある。それはここ近年の恒例行事になりつつある事象だった。
 JRグループは三月にダイヤ改正を実施する。時期によってしない地域もあるので、全国一斉大改正といった趣きではないが、毎年何らかの変更や追加が実施され、それを受けて鉄道ファンが一喜一憂している。
 正直な思いを書けば、ダイヤ改正が実施される毎に長距離列車が削減され、旅人的には楽しいことばかりではない印象があるのだが、そう感じてしまう決定的な事例が、今や春の風物詩になりつつある北海道のローカル駅廃止である。廃止が加速してきた2016年以降の廃止駅数は以下のとおりである。
 2016年 8駅(十三里、東追分、花咲、鷲ノ巣、上白滝、旧白滝、下白滝、金華)※他、留萌(るもい)本線末端区間廃止に伴い8駅廃止。
 2017年 10駅(美々、東山、姫川、桂川、北豊津、蕨岱、島ノ下、稲士別、上厚内、五十石)
 2018年 1駅(羽帯)
 2019年 3駅(初田牛、尺別、直別)※他、石勝(せきしょう)線夕張(ゆうばり)支線廃止に伴い5駅廃止。
 2020年 2駅(南弟子屈、古瀬)※他、札沼(さっしょう)線末端区間廃止で17駅廃止。
 そして、2021年春には18駅が廃止予定となった。予定駅名を眺めると宗谷(そうや)本線がもっとも多く12駅もある。その中には一度降りてみたかった駅も含まれていた。旅をする理由はいつも突然訪れる。

 新千歳空港(しんちとせくうこう)駅のカウンターで、降りたばかりのエアドゥの搭乗案内券を提示してチケットを受け取った。「AIR DOきた北海道フリーパス」一万三千百五十円で新千歳空港から宗谷本線の終点稚内(わっかない)まで往復できて、更に特急の自由席も乗れる。とてもお得なきっぷである。何しろ宗谷本線は普通列車の本数がとても少なく、特急利用を避けて旅をすると日数がかかってしまう。今回は二泊三日の旅を予定している。
 9時45分に飛行機を降りて9分で乗り継げた快速エアポートで札幌に向かう。2020年10月27日火曜日。天気はとても良い。
 今回は同行者がいる。この鉄道紀行でも何度か登場しているTさんである。昼食の選択の相談をして、札幌駅の売店でうにめしおにぎりとたまごサンドイッチを買って、11時ちょうど発車の特急ライラック13号に乗り込んだ。
 石狩平野は青空に大きな白い雲を浮かべている。Tさんとは二年毎に北海道に来ている。留萌本線と札沼線を旅した四年前は雪だった。石勝線夕張支線を訪ねた二年前も夕張は深い雪景色だった。今回は雪のない旅となっている。
 12時25分、真新しいスノーシェードに覆われた高架駅の旭川に到着した。ここからが旅の目的地である宗谷本線となる。隣のホームに現れた白いキハ40形気動車を見て私たちは「北海道に来た」ことを実感している。だが、この古きよき鉄道旅の風情も消えていくことになる。北海道のローカル列車は徐々に新型車両に置き替えられていくという。
 国鉄的な味わいのある硬く青いクロスシートに腰を下ろすと、12時34分、一両の気動車は名寄(なよろ)を目指して発車した。
 今夜の宿は名寄にある。だが、私たちはまっすぐ名寄に向かわず、上下列車で行ったり来たりをしながら途中六駅を訪ねる予定である。その中には来春廃止が予定されている駅も含まれている。
 12時56分、比布(ぴっぷ)に着いた。ここまで旭川の郊外風景を走ってきた列車だったが、この地が住宅地と農村の境のような場所である。
 比布駅にはカフェが併設されているという。次に乗るのはバスで、時間までコーヒーでも飲むつもりでいたが入口が閉ざされている。火曜日は定休とあった。

 宗谷本線ローカル駅の旅が始まった。比布からまず向かうのは一駅先の北比布(きたぴっぷ)だが、次の列車まで時間があるので路線バスを使う。バス乗り場は駅前ではなく、駅前通りを少し歩いた所にある。元は商店街だったのだろうか、店が点在している細い通りを歩く。バス停にはベンチが置かれていた。
 予定時刻より5分遅れて13時40分にやってきた道北(どうほく)バスの車窓は、走り始めてすぐに農地に入っていった。5分で目指すバス停北5線11号に着いた。道はまっすぐで、その先に峠が見える。周囲は一面畑だが、雨を凌げる小さな待合室が設けられている。
 そのまっすぐな道を歩き、交わった道を左折すると遠くに踏切が見えた。北比布駅までは徒歩15分だった。
 北比布は元は仮乗降場という駅未満の駅だったので、ホームは簡素な板組みで屋根はない。先ほどのバス停の風景を思い出させる小さな木造待合室がある。仮乗降場とは、国鉄の地方管理局が、駅を作るほどの人口はない地域の利便性を図って設けた簡素な駅のことで、国鉄民営化に伴い正規の駅に昇格した。多くは駅の周囲には人家は非常に少ない。北比布もそうであった。
 踏切の向こうはなだらかな山並みが見える。手前に牧場があり、視力のいいTさんが「牛がいる」と教えてくれたので見に行くことにした。
 食用と思われる黒毛牛が牧草地に佇んでいる。カメラを向けていると、おばさんがこちらに向かってきた。撮影禁止だったのかと身構えるが、表情は穏やかだった。
「こっちに来て見ていきなさい」
 手招きされ、厚意に甘えて牧場見学とあいなった。仔牛を育てている小さな小屋を案内され、少し触らせてもらえた。牛の飼育についての話も色々と聞ける。間近で見る牛の目のなんと優しいことか。
 缶コーヒーをいただき、もっとゆっくりしていくよう言われたが、あいにく列車の時刻が迫っている。これを逃すと次は17時11分となる。私たちは丁重に頭を下げて牧場を後にした。
 14時31分、下り列車がやってきた。次に降りる駅は塩狩(しおかり)である。歩いてきた道から見えていたとおり、列車は峠の中に入っていった。乗り込んだ気動車は変わらずキハ40の単行だが、車体色と座席が紫になった特別仕様車だ。車内はほどよく空いている。ずっと乗っていたいが、15分で塩狩に到着した。
 駅は上下のホームがずれて配置された造りで、降りたホームに緑色の屋根を持つ小さな駅舎が併設されていた。
 峠の頂に位置するという駅の周囲の景観は白樺林で、斜面に挟まれた平地に駅があり、駅を出ると緩い坂道が国道に向かって延びている。
 塩狩とは天塩(てしお)と石狩(いしかり)の境を意味する塩狩峠から命名されている。塩狩峠の名は同名の三浦綾子さんの小説で有名になった。小説は明治四十二年(1909)に発生した列車事故をテーマにしたもので、峠の頂で停止してしまった列車から客車が外れて滑走してしまったのを、乗り合わせた鉄道職員が身を挺して停止させて殉職した話を描いている。駅から林を歩いていくと顕彰碑が立っていた。

 空は青いが通り雨が降ってきた。国道に出て塩狩15時15分の道北バスに乗り30分、峠の下に平野が広がり剣淵(けんぶち)に着いた。
 剣淵もバス停と駅が離れていた。家と商店が軒を並べる道を歩き、少し広い駅前広場を持つ駅に着いた。駅舎に入ると、無人駅ながら待合室には暖房が入っていた。ホームにある案内板によると絵本の里であり、アルパカ牧場や温泉もあるなど、なかなか楽しそうな場所だが列車時刻は迫っている。15時57分に快速なよろ3号に乗車し、16時24分の風連(ふうれん)で降りた。
 快速なよろに乗っている内に陽は落ちていき、風連は薄暮れとなっていた。次に乗る列車までは少し時間がある。駅前広場から延びる駅前通りを歩いてみる。
 平地に築かれた集落は駅を起点に家が固まっている。北海道の田舎によくある町の作りで、商店も駅の近くに集約されていることが多い。歩いているとスーパーマーケットが現れた。
 夜が近づくと冷えてきた。店頭でたこ焼きを売っていたので、それをひとつ買って駅に戻る。平成元年に改築されたという白い駅舎は真ん中が三角屋根になっていて、かわいらしい構えである。残念ながら風連駅の待合室には暖房はなく、私たちは静まり返った駅舎内で、牧場でもらった缶コーヒーを飲みながらたこ焼きで暖を取った。

 風連から名寄までは二駅だが、下り列車は18時台までない。17時15分の上り列車で二駅戻って多寄(たよろ)に向かう。空は暗くなり始め、17時24分に着いた多寄は夜の中にあった。
 暗闇に立つ一面一線だけのホームから、旭川に向かう列車が去っていった。待合室だけのプレハブ小屋のような駅舎を出ると駅前は真っ暗で、集落までの道も暗かったが、歩き始めてすぐに国道に出た。駅前通りと国道の交差地点には押しボタン式の横断歩道がある。押した瞬間に信号は青に変わった。
 国道には家も並び、飲食店もあるが、人の気配は走り去る車の中のみである。特にすることもなく、寒い夜の国道を歩いている。
 18時08分、キハ40が暗闇の中を接近してきた。名寄行き普通列車だ。これに乗れば19分で名寄に着く。本日五回目の乗車となるキハ40の青い座席に腰を下ろし、灯りの乏しい平地を眺める。到着した名寄駅は少しばかり灯りが眩かった。

     宗谷本線(名寄~稚内)

 名寄はそれなりに町だった。アーケードがあり、家も並んでいる。かつてこの駅からはオホーツクに向かって名寄本線、内陸部の朱鞠内(しゅまりない)方面に向かって深名(しんめい)線が分岐していた。私も深名線に乗った時に乗り換えで降りたことがある。
 しかし、北海道の地方の多くがそうであるように、この町にも衰退が訪れているようだった。店の姿はあっても開いている店は少ない。Tさんと店定めをしながら、ようやく見つけた一軒で美味い料理に出会い、この地が元気であるようにと祈った。
 朝の名寄駅は高校生で賑わう姿を見せている。空は昨日とは打って変わって曇りだ。今日は日本最北端の駅稚内を目指して乗り継いでいく。
 7時52分発の普通列車に乗る。稚内行きだが一気には向かわず途中下車をする。車両は昨日慣れ親しんだキハ40ではなく、キハ54という二人掛け座席が並ぶ気動車だ。ステンレスボディに赤いラインの車体は鋼製車体のキハ40よりも今風だが、一応国鉄時代に登場した車両である。
 名寄を出た単行気動車は名寄の市街を抜けると農村に入っていく。盆地の周囲を囲む山地が少しずつ近づいてくるが、まだ山間というほどでもない。列車は5分遅れで8時09分に北星(ほくせい)に着いた。
 昨日訪れた北比布と同様に北星も屋根のない板組みホームだけの駅で、つまり仮乗降場だった駅である。周囲は人家がほぼない。こういう駅は秘境駅という。駅の西側には畑が広がり耕運機の音だけが響き、東側は農道のような道が緩い斜面に向かって延びている。その道の脇に物置小屋のようなものがあり、これが待合室だ。
 北星は2021年3月の廃止予定駅に挙げられている。そういう駅だから、降りたのは私たちだけではなく、夫婦らしき男女と男性一人も一緒だ。皆カメラを持参しているから、この秘境駅に降りた五人は全員鉄道ファンということになる。
 こげ茶色の壁に、雨雪を受けてきた年月の長さが滲む板組みの待合室に入ってみることにした。窓の上に赤い年代物の看板が取り付けられており、そこに白抜きの毛筆体で「毛織の北紡」と入っている。立て付けの悪い引き戸を開けると小ぶりな木製ベンチが壁に付けられ、そこに駅ノートが置かれている。壁に掲示された時刻表や運賃表が物置小屋ではないことを教えてくれている。
 駅の周囲は草地と林で、見るべきものはこの待合室と板のホームくらいだが、緑に囲まれた空間の居心地は悪くない。これで空が青く澄んでいればと思うが、あいにく曇っていて、やがえ雨粒が落ち始めた。
「上り列車が鹿と衝突して遅れているようです」
 夫婦らしき鉄道ファンの男性がスマートフォンを構えながら教えてくれた。ホームには屋根などないから雨が強くならないかが心配だったが、22分遅れの8時55分に列車は無事やってきた。

 宗谷本線の名寄以北は「宗谷北線」と呼ばれ、本数も減り、比例して風景も良くなっていく。風景の良さというものは人工物の数や規模と無関係ではなく、人家が少ないほど絶景の条件を満たしているようなところがある。その意味でいけば、名寄から先は絶景の地と言えそうではある。
 次に降りるのは美深(びふか)である。距離にして20キロほどだが、前述のように列車本数が少ないから特急に乗る。9時56分発の特急宗谷は3分遅れで名寄を発車した。
 特急は四両編成で自由席は四号車だ。車内は空いている。山並みを遠景に特急は農村を快走する。先ほど降りたった北星駅は瞬時に車窓から遠ざかり、10時20分に美深に到着した。
 美深は赤煉瓦の大きな駅舎を持ち、駅舎の上には「美幸(びこう)の鐘」という鐘楼があり、特急宗谷の到着時と15時に鳴らされるのだという。私たちが乗ってきた宗谷は5分遅れで到着したからか、鐘の音は聞けないまま駅舎に入る。
 駅舎は「美深町交通ターミナル」という第三セクター施設となっていて、売店や観光案内所も入っている。更に二階には「美幸(びこう)線資料室」が設置されている。そこに向かった。
 美幸線は美深から仁宇(にう)布(ぷ)までの21・2キロを走っていた国鉄線で、昭和三十九年(1964)に開業し、昭和六十年に廃止されたという短命の路線である。短命だった理由のひとつは沿線が過疎地であったことで、過疎地であった理由は、この路線が部分開業だったことにある。線名は美深と北見枝幸(きたみえさし)を結ぶという計画から付けられたものだった。
 美幸線は国鉄全路線でもっとも収支係数(百円を稼ぐのにかかる経費を表した数字で、美幸線は三千を超えていた年があった)が悪かった年度があり、「日本一の赤字ローカル線」とニュースで報じられた結果、全国的に知名度が上昇した。国鉄の赤字ローカル線が問題となっていた時期の話だ。その状況を逆手にとり、当時の美深町長が東京の銀座に出向いて美幸線のPRと切符販売をしたという逸話もある。
 資料室には、そんな美幸線の駅名標や備品が展示され、当時の切符や写真も飾られている。
 美深駅前に出てみる。整備された駅前広場から小さな通りが延びている。駅前はそれなりに家は建っているが、振り返って美幸線が走っていた東の方向に視線をやれば、そこは広大な農地があり、その先は深い山々がそびえている。その更なる先にオホーツク海があり、北見枝幸の町があるのだが、その風景は鉄道が存在したとは信じ難い景観となっている。
 駅前通りを歩く。マンホールにチョウザメが描かれている。美深の名物らしい。山麓の町とサメは結びつかないが、そういう風である。歩き始めてほどなく国道に出た。ここからバスに乗る。例によってバス停は駅前ではなく国道に位置している。
 国道沿いは商店が点在し、喫茶店もあった。後で入ってみようと思う。バスは11時45分までないが、駅をのんびり見学し、集落を散策しているうちに時間となっていた。
 車窓はすぐに農地の中となり、前方に山が近づいてきた。9分で美深温泉に着く。ここが目的地だ。
「今日は温泉は休みですよ」
 降車時の精算でそう教えられる。今更どうすることもできないまま降り立った。
 温泉施設にはレストランが併設されている。運転手の話では、そこは営業しているとのことだったが玄関は閉まっていた。仕方がないので園内を歩く。美深温泉は広々とした公園の中に位置していた。白樺林と池が青い空の下に明るく広がっている。
 Tさんが「美深チョウザメの館」という建物を見つけて熱心に誘う。入ってみることにした。
 入口にはパンフレットが置かれている。係員の姿はない。中に入っていくと、水槽のガラス越しにチョウザメを見ることができるコーナーがある。大きいものでも1メートルくらいだろうか。三角に尖った顔が可愛らしく、カメラを向けると優雅に泳いでみせてくれる。名前は「サメ」となっているが、れっきとした淡水魚で、その細長く尖った顔がサメに似ていること、鱗が蝶の形に似ていることから「チョウザメ」と名付けられたそうである。
 百円でエサを購入して、水槽の上からエサをあげるコーナーがあったのでやってみることにした。水槽は成長の度合いによって分けられている。まだ子供のチョウザメには万遍なく行き渡るようにエサを撒く。元気な動きを見ていると情が移って去りがたくなってくるが、エサがなくなった頃合いで退館した。
 昼食は国道に接した道の駅でカレーライスを食べ、先ほど降りた温泉施設前のバス停に向かう。美深駅に戻る便ではなく、その先に向かう便を選択してみる。行先は恩根内(おんねない)。13時14分にやってきたバスは人里離れた緑の中を14分走り、山麓の小集落に着いた。
 恩根内駅は1993年に改築したという白い三角屋根の小さな駅舎を持っていた。駅舎と接する一面だけのホームの向こうは林で、そのホームには柵はなく、駅前から延びる細い道と小集落とホームの間には仕切りはない。
 雨が降ってきた。美深温泉は晴れていた。山の天気の移り変わりは激しい。北海道の無人駅に多い屋根無し砂利敷きホームに立ち、やってきた13時37分の名寄行き普通列車に飛び乗った。
 雨に煙る草地に天塩川が霞んで映る。川向こうに美深温泉が過ぎ、紋穂内(もんぽない)駅に停車した。緑の中にぽつんと砂利敷きの短いホーム。そこに付随して斑模様に錆が浮いた貨車改造の待合室がある。この駅も来春廃止となる。
 美深は晴れていた。先ほど集落を散策した時に見つけた国道沿いの喫茶店に入り、コーヒーを飲み、みかんをご馳走になった。商店を改装して集会所にしたような造りで、実際、地域住民の憩いの場になっているようだった。

 美深14時51分の特急サロベツ1号の乗客となった。四時間半も美深町にいた訳だが、つまりが列車本数が少ないのだ。北海道らしい車窓を持つ宗谷本線はここからが白眉で、降りてみたい駅はいくつもある。特に幌延(ほろのべ)町に多く、幌延町ではJRが廃止を打診してきた駅の運営費を町で負担して、秘境駅を観光資源にしようという試みを開始している。
 宗谷本線に秘境駅が多いのは、沿線にそれだけ離村者が多いということでもあり、実際、雄信内(おのっぷない)という駅はほぼ廃村状態の中に駅が位置し、古い木造駅舎が所在なげに佇んでいる。そういった駅を特急は早送りのように通過していく。眺めてみたければ普通列車に乗りなさいということだが、その普通列車の本数が少ない。
 車窓は薄暗くなってきた。護岸されていない天塩川の蛇行を眺めているうちにサロベツ原野に入っていくが、もう空は夜になり始めていた。17時23分に着いた稚内は雨の中にあった。
 夜は最北の町で飲んだ。2016年まで留萌本線の終着駅があった増毛(ましけ)にある日本最北端の日本酒酒造、国稀(くにまれ)酒造の酒を飲む。出てくる魚がどれも美味しい。雨に煙る町は少しうら寂しさがあったが、都会過ぎない稚内駅周辺の町並みは好みにあった。細い道路に面して家が並び、飲食店が点在する。西には丘、東には港。二軒めに入った店はおばさんが営む家庭料理屋の趣きで、おでん盛り合わせに暖まった。カウンターで一人酒をしているおじさんの食べているカレーが懐かしい香りを漂わせている。
「ここのカレーは最高だよ!」
 おじさんはいい笑顔で教えてくれた。

 翌朝、私たちは稚内から二駅手前にある抜海(ばっかい)に向かった。たった二駅先だが、列車で往復しようとすると10時27分という、朝にしては遅い出発を選択するしかなかった。
 稚内の市街を抜け、列車は熊笹の草地に入っていく。突然高台に出た。ここから日本海越しに利尻(りしり)島(とう)が見える場所だが、今日は雲が多い。抜海には17分で到着する。
 昨日の名寄から何度かお世話になっているキハ54という銀色の気動車が駅から去っていくと、私たちしかいない駅は風の音しか聞こえない空間となった。ぱらついていた小雨はすぐに止み、空は少しだけ晴れ間を見せた。
 広大な草地に古い木造駅舎が立ち、高台の下の海岸に向かって駅前から道が延びている。その道を歩き始めた。11時49分までには帰って来なければいけない。これを逃すと次は19時台であり、朝昼夜の三本しかない列車の稚内行き最終だった。
 道に出て振り返る。いい駅舎だ。雨と雪が沁み込んだ木の温もりを感じる。一日の平均利用者は二人。ここも2021年3月の廃止が予定されていたが、反対運動が起きて当面の存続が決定した。

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