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日本語は大きな声で話さない方がいい

4歳からピアノを習い始め、小学校の高学年になって、私は、小学校の金管バンドに入り、アルトホルンとドラムメジャーをやることになった。音楽の先生は、私が音楽が好きなことをよく知っていて、放課後にリコーダーの指導をしてもらっていたし、また、市の少年少女合唱団を紹介してもらって入団した。ピアノは、弾くのは好きだったけど練習はあんまり好きじゃなかったけれど、合唱は、基礎運動から、発声練習、パート練習、どれも好きで、歌を歌うのが大好きだった。

初めてパスポートを作って海外に出たのは、小学6年生の時だったと思う。韓国の釜山に、その合唱団の交流コンサートで行くことになったときだった。コンサートの練習とともに、韓国語で簡単なことは言えるようにいくつかフレーズを暗記した。「こんにちは」「ありがとう」「トイレはどこですか」「わたしは◎◎です」釜山の少年少女合唱団の人たちと一緒に歌うために「アリラン」も練習して覚えた。

出かける前に、いろいろな注意事項と並んで、

街中では大きな声で日本語で話さない方がいい。日本語に対して嫌なイメージを持っている人もいるからだ。

そんなことも聞いた。びっくりした。どうして、日本語に嫌なイメージを持っている人がいるの?

釜山についてからは、ずっとバスでの移動だった。バスのガイドさんは朴さんという年配の女性で、とても美しい日本語を話す人だった。釜山の街の中をあちこち案内してもらったのだと思う。韓国の通貨ウォンも両親がもたせてくれていて、いくつか色鮮やかなお土産も買った記憶がある。

コンサートは無事に終わって、釜山の少年少女合唱団のメンバーとの交流会もあった。私たちは日本から彼らにお土産を持って行っており、彼らからもプレゼントをいただいた。私たちが言えたのは、上に書いたような簡単な韓国語だけだったから、子供同士、それこそ言葉の壁を超えて、交流した。今となっては何をどう接したのか全く記憶にないけれど、お別れの時が来た時、私たちも彼らも、どちらも肩を抱き合って号泣して別れを惜しんだことは記憶に残っている。

朴さんとお別れする時もずいぶん泣いた。短い滞在の間に、私はいろいろ教えてくれた朴さんのことが、とても好きになっていたし、だからこそ、40年も経った今、彼女の苗字が朴さんだったということを覚えていて驚いている。

出発前に注意され、心配したような、嫌な思いをすることは、釜山にいる間に、一度もなかった。一度もなかったのに、大きな声で日本語で話してはいけない、という、その言葉だけは、ずっと刺さったままだし、あのとき、バスの窓から外を眺めた街の色がグレーだったこと、この街の中に、嫌な思いをしている人がいるかもしれないこと、気をつけて大きな声では話をしなかったこと、そんな記憶として残っている。

もう少し後になって、日本語を話すことを強要された時代があったのだ、ということを知ることになった。

写真は今シーズン仕込んだキムチ。


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