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Kino@East Van Roasters on Carrall st._Feb.15th 10:57am

 日曜の朝。コーヒーとホットチョコレートをはさんで、昨日会ったばかりの男と向かい合っている。
 広い肩の向こうで、コーヒー豆とカカオ豆が焙煎されている。南半球のジャングルから海を越えてやって来た果実の種子は、熱にあてられ、裸にされてすり潰され、苦く、あるいは甘く生まれ変わる。
 私を映している2つの眼球は、昨日と同じように潤んでいた。そのキレイな水の底に、誰にも溶かせない哀しみが沈んでいる。それを薄めようとするかのように、コーヒーとホットチョコレートを流し込んでいる。

 ちょうど24時間前、仕事仲間のフォトグラファー Willのスタジオを訪れた。いつものようにシャッターを上げると、Kinoがいた。
 目が合うと、視界に小さな火花が飛んだ。初めて会うアシスタントだった。
「こんにちは」
 何故か一瞬固まってから、Kinoは立ち上がった。
「どうも」
 差し出された手を握ると、夜行性の動物みたいによく光る目が私を射った。

 毎シーズン更新するセレクトショップの商品撮影だったので、作業はつつがなく進んだ。写真のデータを確認しながら、素材やデザインをチェックする。
 KinoはWillの指示を先回りして、商品の角度やライティングを調整している。空気が、生きものみたいに蠢いていた。肌に押しつけられる生あたたかい弾力。視界のはしでKinoが動くたび、静かに何かがノックされる。

 夕方になって撮影が終わり、三人で近くのバーに飲みに行った。男二人はしこたま飲み、店を出る頃にはゴキゲンだった。
「そうだ、これ」
 バッグの中から取り出したものを二人に渡した。East Van Roastersのチョコレートバー。
「バレンタインデーにガレージに籠って働く可哀想な男達に!」
 Willは大げさに両腕を広げてから、「You made my day!」とハグをくれた。
 一方Kinoはしみじみと「バレンタインチョコなんて久しぶりにもらった、本当にありがとう」と言った。

 Taxiで走り去るWillを見送った後、「Cambie Bridgeを渡って帰らない?」とKino。
 夜の橋を歩いて渡るのは好きだった。ビルの群れが巨大な宝石のかたまりみたいに爛々と輝いているのを見ると、この街が好きだと思う。叫んでも、暴れても、ここが私の生きる場所。

「バンクーバーに来てよかったって、この風景を見るといつも思う」
 ふらつきながら車道側を歩くKinoが言う。
「橋を渡るたび、いのちがリセットされるんだ。かっこ悪い自分も、醜い自分も、なかったことになるんじゃなくて、光と闇みたいに、抱き合ってひとつになる」

 Kinoは急に立ち止まり、うつむいたまま動かなくなった。髪が邪魔をして表情がわからない。気分でも悪いのかと覗き込んだとたん、キスされた。「まだバレンタインデーだから」とKinoは笑った。目が少し潤んでいる。
「気付いてた? 今朝、シャッターが開いて、君が現れた瞬間、空気が、ふにゃって歪んだの」

 30分後、Kinoは私の部屋にいた。
 思ったよりも酔っぱらっていたようで、玄関から一直線に、一人ベッドに倒れ臥した。まるで大きな犬、と思いながら、水を飲ませ、ジャケットを剥がした。寝息のリズムに合わせて上下する背中の稜線が、Tシャツから透けて見える。翼の跡みたいな肩甲骨。

 息をついて立ち上がり、コートを脱ぐと、「サナ」と、Kinoが初めて私の名前を呼んだ。振り向いた瞬間、キレイな骨と筋肉が私を締め付けた。

 酒臭くてあたたかい体に閉じ込められながら、その熱の真ん中に、一点、氷のような哀しみが刺すのを感じた。
 Kinoの哀しみなのか、私の哀しみなのかはわからない。それを埋めるために、私たちは、こうして目の前に在るものをただ引き寄せているのだ。

「サナ、チョコレートありがとう」肩の上にKinoの声が落ちた。
 そのまま倒れ込むと、絡み合うことなく、Kinoと私はじっと抱き合っていた。
「このままドロドロに溶けて、ひとつになってしまえばいいのに。チョコレートみたいに」
 
 まぶたを閉じた。バレンタインデーが終わろうとしていた。


 翌朝、目を覚ますとKinoがいた。5cm先の、犬のような目。固い鎖骨に額を押しつけて、背中の翼の跡に触れた。
「コーヒーとホットチョコレートを飲みに行こう」
 Kinoの声が頭蓋骨に響いた。外は晴れていた。
 
 この熱がほどけた時、私たちはきっと狂うだろう。お互いの真ん中に眠る哀しみに触れて。咽喉の焼けるような甘さと苦さを飲み込んで。
 それでも、気付かないふりをして笑っている今を、もどかしく絡めている指を、愛おしいと思う。それでいい。

 コーヒーとホットチョコレートを飲みに行こう。今が永遠に続くのだという優しい嘘を、信じてみよう。



『Ku:Cafe in Vancouver』はバンクーバーに実在するCafeを舞台にした12のショートストーリー。2014~2015年にフリーマガジン『Oops!』で連載されたものです。

挿絵は愛知在住の画家/シンガーソングライターの原田章生さん

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