「マネージャー不要論」と私の距離感

発端の話をちゃんと聞いたわけではないので言及はしないけれど、アジャイルの文脈で「マネージャーは不要」という話をちらほら耳にする。これについて考えていることを雑に書き出す。

あなたが不要だと思うもの、わたしが不要だと思うもの

「マネージャーが不要」と言う場合の「マネージャー」は何を指すのか。パッと思いつくものを例に挙げてみる。

・マネージャーという「肩書き」や「呼び名」
・開発プロセスやチーム活動の「決定権を持つ人」
・マネジメント業務を「実際に担っている人」
・ヒエラルキー構造において「チームメンバーより上にある立場・地位」

マネージャーという呼び名が示す業務領域が広く曖昧だと感じている人は「そんな呼び名いらない」という意味でマネージャー不要論を説くかもしれない。
Agileにやっていこうと意気込んでいる人は、その考えを理解してくれない上司に対し「理解がないのに決定権だけ握っている人はいらない」という意味でマネージャー不要論を説くかもしれない。

何にせよ、互いの含意を理解した者同士で会話しないとこの手の話は誰かが傷つきかねない。対面で会話しても言葉の裏側まで伝え合うことは難しいので、SNS上では殊更だ。

不要だと言いたくなる気持ち

不要だと思うことと、あえてそれを聞こえるように発言することは、深層心理にあるものが違いそうだ。

マネージャーへの敵対心や疎ましい気持ち、自分の考えの正しさを認めてもらいたい気持ち、原理や定義に則りたい気持ち、議論を重ねて解を見つけたい気持ち……。いろいろあるだろうし、その善し悪しを言うつもりもないし、言う資格も持ち合わせていない。

ただ誰かを傷つけるかもしれないその鋭い言葉を発するときは、自分の真意を自覚しておきたいと私は思う。マネージャーが不要かどうかを説く前に、それを言葉にすることの意味を自分に問う。自分のポリシーや考え方は大事にしたいけれど、誰かを傷つけても貫くほど大事なわけでもないのだ。

私にとって必要なこと

私たちのチームがよりAgileにプロダクト開発をしていくにあたって、関わる全ての人に役割があり、できることがあると私は思っている。そう思える人たちに囲まれている。

言葉の背景を理解し合うのは難しいとか、不要論を言う深層心理を自分に問いたいとか、そんな悠長なことが言えるのは恵まれた環境にいるからかもしれない。

だから当面はマネージャー不要論について持論を発信する気はないけれど、周囲の人がどんな考えを持っているかは気になるし、それらを参考にしつつ自分の立ち振舞いを考えていきたいし、今の私が不要なことをしていないかのフィードバックは常にいただきたい。そんな付かず離れずな距離感が、今の私には必要なのだ。

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