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目の前の人を好きになれ、マネジメントの話はそれからだ

エンジニアリングマネジメント経験も3年目に突入して、自分なりの手札が少しずつ増えてきた。そして最近は、そのひとつずつを言語化していくことが楽しい。

その過程で、かつての自分は決してしなかったがいつの間にかするようになっていたあることに気づいた。それは「目の前の人を好きになる」ということだ(念の為補足しておくと恋愛的な『好き』ではない)。

他人が苦手で斜に構えがちだった自分が、新たに接点ができたメンバーに対して積極的に好意や敬意を持ち、その気持ちを正直に伝えたいと考えるようになった。
好きなところを必死に探すわけでもなく、無理に好きだと思いこむのでもなく、自然と目の前の人を好きになりたいと思うようになっていた。変化に気付いたときは、損得や立ち回りではなくそういうことができる人間だったのか、と自分自身に驚いた。

思い返せば「この人もきっと僕にはない能力を持っていて、それが発揮されることでプロダクトや僕らに良い影響を与えてくれるだろうから、僕もこの人が100%の力を発揮できる環境を精一杯つくるぞ」という意気込みが、ポジティブに向き合う気持ちに変換されていたような気がする。

こうした僕の変化を生んだ要因はいろいろあるだろうけれど、その中の大事なひとつは、今まで採用活動をしてくれていたチームメンバーの努力があると思う。僕が自信を持って性善説的な行動をとれるのは恵まれた人間関係の中にいるからで、恵まれた関係性はこれまでの採用活動によって成り立っている部分があるはずだ。
少し話を飛躍させるなら、新たに加わるチームメンバーに心理的安全性を確保してもらえるよう僕があれこれ下準備できるのは、僕も新メンバーに対して心理的安全性を確保できているからなのだろう。

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……なんて、回りくどい理屈をこねくり回してようやく、人を好きになることは理に適ったことなのだと説明してきたわけだけれど、こうでもしないと僕は誰かを好きな自分に納得できなかった。納得というより言い訳。仕事の場で他人に好意を持つということは、狡猾な戦略で、裏表のある行為だと思っていたから。もっとシンプルに直感で目の前にいる人を好きになれれば良かったのに。

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互いに好意的な関係性について、居心地の良い関係を築ける人だけが集まっているに過ぎないのではと、かつての僕なら考えただろう。極端に言えば、多様性を盾にとってこの関係性を疑ってかかっただろう。
これに答えるのは今でも難しい。当然一人ひとり性格は違うし、仕事に対するスタンスも違う。それまでの職場環境や文化も違う。僕の当たり前が誰かにとっては異常だったこともある。だから単純に「居心地のいい人たち」とは括り難いものの、それでも、互いの違いを理解して受け入れ合える人の集まりではあると思う。

でも、この疑惑も結局、人を好きになることを打算的な行為だと捉えていたから生まれたものだ。無条件に人を好きになるなんて歪な環境に違いないと、認知的不協和を低減していただけだ。本当は、当時の自分も薄々気付いていたんじゃないかな。気付いていても自分一人では考えを変えられない頑固者だった一昔前の僕が聞いたら驚くだろうけれど、人は理由なく人を好きになっていいんだと、今なら言えるよ。だからさ、マネジメント1年生の僕。方法論を追い回す前に、目の前の人を好きになることから始めてごらん。

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