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#7 私の黒歴史in中国「基督教徒?」

 中国で生活した経験がある多くの人が感じることがある。一旦仲良くなると、人と人の関係がとても近しく親密に感じられることだ。時には、初対面で意気投合し、お互い忽ち気の置けない関係を築くことも珍しくない。日本ではなかなか難しいのだが、これは日本にはなく(一部にはあるが)中国には根付いている「ある習慣」が、大きく作用していると思われる。

 私は小さい時、両親がキリスト教徒だったため、日曜日は家族全員で教会へ行くのが習わしだった。朝早く起こされてバスや電車を乗り継ぎ、片道1時間半ほどかけて向かうその場所は、私にとっては二度寝する場所であり、教義の勉強においても全く熱心ではなかったため、自分は歓迎されていない子だな、とは薄々感じていた。だが幼子心に感じたのは、そのコミュニティーにおける特異的な「近しい関係」だった。

彼らはお互いを「兄弟」或いは「姉妹」と呼んでいた。何故ならキリスト教徒である私たちは皆が「天のお父様」の子であるから、自ずと兄弟姉妹なのである。年少の私は皆の「妹」であり、兄や姉らは私の不徳な信仰態度に常に寛大で優しく、私も疎外感や警戒心を抱くことはなかった。彼らは初対面の場合に於いても、お互い兄弟姉妹という通念を共有しているから、自然に家族のように打ち解けていた。

あ、これなんだ、と膝を叩いた。

冒頭で述べた中国の「ある習慣」とは、正にお互いを「兄弟」「姉妹」と呼ぶこと。例えば職場で、あなたの同僚が年上の女性なら、「○○姉さん」と呼ぶ習慣が普通にある。特に田舎だけの習慣ではない。血縁がなくても、ある程度年上なら「○○兄さん」「○○姉さん」、年下には「○○弟」「○○妹」と呼ぶ。ここで重要なのは、よく日本で言われる「同学年」は存在しない。1日でも早く生まれたなら、年長者としての座に就き、それなりの態度ふるまいが期待される。

注意したいのは、この習慣は必ずしもキリスト教由来ではないということ。恐らく中国の人々に古来から自然に根付いている儒教思想からと思われる。

日本で生まれ育った普通の人には、キリスト教徒でなければこの習慣はないだろう。よって、現地の慣習に適応したくても、違和感や気恥ずかしさから、中々適応できないだろうと推察するがどうだろうか。私も間違いなくその一人で、どうしても気持ちの上で強い抵抗感と葛藤に、当初何年かは煩悶した。が、過去、教会に「通っていた」経験から、それがコミュニケーションに与える作用と利点は頭では理解できていたのが救いだった。

あれから何十年、すっかり板についたのか、日本での今の職場でも、中国の年上の同僚にはつい「○○姉さん」と口をついて出てしまう。彼女も満更でもないのが分かる。業務で中国人クライアントを担当しているのだが、年下なので「○○妹」で大丈夫、というか「○○様」とか逆に失礼かも、と思ってしまうほどだ。

中国に行く機会があれば、是非使ってみてほしい。人懐っこく兄弟姉妹と呼んでみれば、忽ちその大きな懐に入れてもらえるだろう。




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